ボククボのくよくよ日記

ボククボがくよくよしながら日々ちょっとずつ成長していく記録

“幸福の総量保存の法則”は正しいのか?

このブログでも度々紹介している作家の水野敬也さんが、先日、ブログでこんなことをおっしゃっていました。

 

「愛を説いている筈の宗教が戦争を引き起こしてる理由が分かったぞ!愛は悪を支える宿命を持っていて、愛が強まれば強まるほど悪もそれだけ強大になっていくからだ!そう考えていくと、たとえば天然痘を無くしたという一見「良い」出来事もそれだけの悪と結びついていて、だから世界の不幸の総量は全然減っていないのだ!」

 

ぼくは水野さんをとても尊敬していますし考え方も似ているのですが、この考え(以降、便宜的に「幸福の総量保存の法則」と呼びましょう)だけには、「ん?」と首をかしげてしまいました。

そしてよく考えた挙げ句、「それは違うぞ」と強く思ったので、ここにその考えを書いてみたいと思います。 

※水野さんのそのブログ記事はこちらです。ぼくのブログから入った人は先にこちらを読まないと分からない部分があります。

ameblo.jp

 

愛が強まればそれと手を組む悪も強くなる。光がある限り闇も生まれる。それはそうだと思います。ただし、ある程度は、ではないでしょうか。

その割合は、果たして5対5なのでしょうか?5の愛や光があれば、悪や闇も必ず5生まれるのでしょうか?

水野さん以外にも同じような考え方をする人は結構いて、ぼくが「世界中を平和になればいいのにね」などと言うと、「でも、誰かが笑っている限り誰かが泣くじゃん」とか「貧しい人がいるおかげで俺たちが豊かな生活ができるんだよ」とか言われることがよくあります。

人がなぜそう思いがちなのかということを考えてみたのですが、たぶん、世界が広すぎて具体的に考えにくいからだと思いました。

 

具体的に簡単に考えるために、仮に、世界中に10人しか人間がいないとしましょう。そして、Aという強くて横暴な人間が9割の食糧を独り占めにしているために、他の9人は飢えに瀕しています。

あるとき、この世界で誰かが改革を成し遂げ、平等をもたらします。Aの持つ食糧を分配し、完全とは言えないまでも10人全員の空腹がある程度満たされました。

平等をもたらしたこの改革と言う愛によって生み出されたと考えられる悪とはなんでしょうか?

それは無論、Aの食糧が減ったということでしょう。

ですがなんと、Aは不幸にはなりませんでした。なぜなら、Aは食糧の何割かを廃棄していたし、過剰な量の食事を摂取していた為に肥満や糖尿病に苦しんでいたからです。Aには無駄であった分の食糧をみんなに配分することにより、9人の空腹が満たされた上、Aも健康になり幸せになれたのです。さらに、みんなと仲良くなれたというおまけつきです。

 

どうでしょうか?この場合、愛が幸福の総量を増やしたと言えないでしょうか?

 

さて、この世界における愛の力はこれだけではありません。
Bがフロンティアを開拓し、新たな食糧を発見しました。Cが新しい農法を考え、食糧を効率的に増やせるようにしました。Dがそれらの知識をみんなに伝え、おかげでEがさらに効率の良い農法を編み出しました。

それでも、世界の幸福の総量は上がっていないでしょうか?

確かに、せっかく発見した知識をDがみんなに広めてしまったせいで、BとCは優越感が得られず悔しい思いをするでしょう。でも、それで仮に幸福量が2ポイントマイナスになったとしても、その増えた食糧が分配されてみんながお腹いっぱいになり、Eが編み出した農法によって増えた食糧をさらにみんなに(もちろんBとCにも)分配することにより、幸福量は10ポイントほどプラスされ、結果的に世界全体の幸福量は8ポイント増えたことにはならないでしょうか?

いや、と誰かは言うでしょう。「人間以外の幸福量も考えるべきだ」と。
効率的な農法は生態系を壊すかもしれないし、Aが廃棄していた食糧だって、人間が食べられなかっただけでバクテリアの栄養になっていた、と。

しかし、バクテリアまで持ち出すとまた幸福の総量保存の法則が真理であるように思ってしまうのは、人類70億人の幸福量を考える時に抽象的な思考になってしまうのと同じではないでしょうか。
10人全員の幸福量を上げることが可能であるなら、人類70億全体の幸福量を上げることも、バクテリアを含めた地球上全ての幸福量を増やすことも、理論上は可能な筈です。そもそも、極端な話、仮に超強大な核兵器で地球を破壊してしまえば地球全体の幸福量は0になって(減って)しまうので、幸福の総量保存の法則は成り立ちません。であれば、逆に全体の幸福量を増やすことも全く普通にできる筈なのです。

つまり、5の光があれば5の闇が生まれるというのは、哲学的に考えると真実なような気がしてしまうだけで、現実的に極端に考えていけば、そんなことはやっぱりないと思うのです。


次に、今回のブログで取り上げられた宗教の話を考えてみます。
宗教で戦争が起こるのは、強い愛があるためではなく、その愛がひどく独善的で排他的であるからだと思います。

日本は宗教にマイナスなイメージを持っている人が多い印象をぼくは持っていますが、基本的に愛を肯定する筈のぼくたちがそうであるのは、宗教の多くが「我々の宗教を信じている人には親切にしましょう。信じない人は良い人間ではありません」といったように、かなり不完全でねじ曲がったものであることを知っているからです。でなければ、海外に比べて信仰心に乏しい日本人だって、宗教に対してこれほど冷笑的にはならないのではないでしょうか。

本当の愛は、もっと協調的で、多様性を認めるものである筈です。
たとえば、私の尊敬する先生は「人に優しく接しなさい」と言いました。私はこの先生を愛していますが、もしその先生を批判する人がいても、その人を嫌ったり傷つけたりは決してしません。なぜなら、先生は「人には人それぞれの考え方があるのだから、自分の考えや正義を人に押し付けるな」とも教えてくれたからです。

これは当たり前の話で、愛する人やその教えに対して批判的な人を攻撃してしまうという事件が起きるのは、その愛の対象にある人の教えが間違っているか、攻撃してしまう人が浅はかで低レベルだからです。神を理由に人を殺すというのはやはり愚の骨頂以外の何物でもありませんし、心情的にも理屈的にも正当化できるものではない、とぼくは考えます。

また、この理屈は、今回の水野さんにも当てはまると思います。

自転車の話なので「レットイットビーの教えで欲求が最高に効かなくなった。ブログを書こうと思っていなければ規律を犯していた」という極論になってしまっていますが、これがもし暴力の話だったらどうだったでしょうか。

誰かムカつく人がいて「コイツぶち殺そうかな」と思った時にレットイットビーが流れたとして、水野さんはそのムカつく人を殺したり、あるいは殴ったりするでしょうか。ブログに書こうと思わなくたって、そんなことは決してしない筈です。

従って、レットイットビーの「ありのままでいいんだよ」という「愛」は「自転車を違反駐輪したい(=自分の欲求を通したい)」という「悪」を支えてはいましたが、その両者の割合は5対5ではなかった、というのがぼくの主張です。

確かに愛には悪という対抗勢力が存在するでしょうが、上手に愛を説けばその悪を減らすことも、限りなく0に近づけることも可能なのではないでしょうか?


最後に、天然痘の話です。「天然痘が無くなっても不幸の総量は減っていない」というのは真実でしょうか?

ぼくは水野さんのその文を読んだとき、北野武監督の言葉を思い出しました。
アウトレイジ」についてのインタビューで「この暴力映画が人に与える悪影響を考えなかったのですか?」と訊かれ、北野監督はこう答えたそうです。

「世の中には愛や平和を説く感動的な映画が溢れているけど、世界はちっとも平和になっていないだろ。そんなもんだよ」

と。

北野監督には失礼ですが、そしてぼくは北野監督は非常に思慮深い方だと思っていますが、これは浅はかな考えだとぼくは思います。なぜなら、世界から飢餓や戦争がなくなっていないからといって、「ちっとも」平和になっていないとは全く言えないからです。

連日ニュースで不幸な事件が報道されているので世の中には不幸ばかりだと思ってしまいがちですが、それも結局、考える対象が大きすぎるために真実が見えなくなっているだけではないでしょうか。

世の中に既に1000の不幸があり、今年さらに20の不幸が生まれたとしても、愛の力によって30の不幸が救われれば、世界の不幸は990に減ります。1%しか改善していないので「ちっとも」平和になっていないように見えますが、ちっとは平和になっているのです。また、もし30の愛に対し40もの不幸が生まれてしまったとしても、愛が全くなければ世界の不幸は1010ではなく1040になってしまいますから、やはり愛はあるべきだと言えるでしょう。

世界があまりにも巨大で不幸に溢れているため実感しにくいですが、それでも愛を説く映画は人を救っているし、天然痘の撲滅はわずかでも人類に平和をもたらした筈です。

それでも誰かは、天然痘の撲滅によって人口爆発が起きて食糧危機が……と言うかもしれません。しかし人口爆発だって、バングラデシュ政府が政策によって自国の人口調整を図って成果を出したように、愛の力によってある程度防ぐことができます。

また、先ほどの10人しかいない世界のように、人類は科学の力によって食糧を増やしつつありますし、火星移住計画だって進んでいます。もしかしたら、太陽のエネルギーをほぼ無尽蔵に使えるようにだってなるかもしれません。太陽のエネルギーをいくら使ったって、誰も不幸にはなりません。

──以上の理由から、「幸福の総量保存の法則」は、様々な見落としと抜け道のある不完全な極論だと、ぼくには思えてならないのです。

大変長くなりましたが、何故ぼくが持論をこれほど延々と書いたのか。

言ってしまえば、

 

なぜ宗教戦争と言う矛盾が起きるのかということに対しての

水野さんの『俺、気づいちゃいました』アピールに対しての

「ぼく、気づいちゃいました」アピール

ですよね。

 

半分冗談ですが、とにかく、ずっと抱いていたこの命題についての考えを自分が思いつく限りの反論を挙げながら書き尽くしてみました。
ほとんど何の勉強もしていないぼくが思考力のみで書いたものなので、論理や根拠に過不足が多々あると思いますが、いかがでしょうか。

 

最後にまとめますと、

「人が何が悪いことをしようとするとき、欲望を満たしたいと思ったとき、『真理』や『道徳』を根拠にすることで欲望が『加速』する」

という法則は真実でしょう。ただ、

「『ある程度』加速する『場合がある』」

という表現が、より真実に近いとぼくは思います。

善は悪を支えるし光は闇を生みますが、両者の割合は必ずしも5対5ではありません。8対2や9対1の場合が多くあるので(もちろん、逆の割合の場合もあります)、ぼくたちは自信を持って、善い行いをしようと、光を生み出そうと、努力して良いのではないでしょうか?

ただし、この考えにはあまり意味はないのかもしれません。なぜなら、この考えが真実であろうとなかろうと、水野さんもそうされているように、多くの人は愛に向かって全力で生きているからです。
ただ、この考えが、「俺が頑張って人のために生きてるのって無駄なのかよ!」と嘆いている誰かの希望や心の支えになれたらいいな、と思います。


少なくともぼくは、この考えを信じ、世界をより良くするために全力を尽くすつもりです。