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ボククボのくよくよ日記

ボククボがくよくよしながら日々ちょっとずつ成長していく記録

“反省力”について

高校時代に所属していた演劇部の卒業生同士で集まり劇を創るということを9月からしていて、今日もその練習に言って来たのですが、帰りにある後輩とご飯を食べに行きました。先日会った時のその後輩のある行動が良くないなと思うことがあったので、そのことについてお説教をしようとしたためでした。

その後輩には前から色々とずれているところがあるんじゃないかなとぼくは感じていて、以前も2度叱ったことがあるのですが、今日も叱ってみると、反論ばかりされてしまいました。

 

「それは悪かったと思いますが」と一部は非を認めつつも、「それはこうだったんです」とか「それはそっちが悪いんじゃないですか?」とかの言葉が非常に多く、ほとんど納得できていないようでした。

さらに、以前叱った件についても、

 

「あの件に関しても、ぼくは悪くなかったと思います」

 

と言い出してきて、「なぜ悪くなかったか」という言い分を延々と語られてしまいました。その言い分がぼくの盲点であったり、納得できるものであったならよかったのですが、ぼくは「その言い分は違うんじゃないかなぁ」と感じました。  

そして、延々とその言い分を聞いた後に思ったのが、

 

「あぁ、この人はたぶん成長しないなぁ」ということでした。

 

いや、そう決めつけたわけではないです。

彼には彼なりの筋道通った言い分があったので、それをぼくか理解できなかっただけで、彼は本当は悪くないのかもしれません。ぼくがただ「先輩」という立場から傲慢にも叱ろうとしたけれど、それが全く的外れだったのかもしれません。それであれば彼はあの場では正しい主張をしただけで、全然成長できるでしょう。

 

ただ、その言い分が正しいかどうかを判定する第三者がその場に大勢いなかったので、どちらが悪いとか正しいとかは、「ぼくには分からないから他の人にも聞いてみな」とだけ言い、議論は避けました。

ただ、もし一般的にも彼が間違っているのであれば、彼はその過ちをぼくが指摘しているのに直そうとしていないわけですから、非常にもったいないというか、成長しないだろうなと思うのです。

 

「こうしたのは間違ってるよ」とか「ここが君の短所だよ」と言われたとき、それを素直に認め、直す。

ぼくはこれが非常に大事だと思っていて、これをできる人とできない人では圧倒的な差が生まれると信じています。これは特性や気質などではなくひとつの力であり、一言で言い表すなら、

 

「反省力」

 

と言えるのではないかと思います。

今日はこの反省力について長々と書いてみます。

 

 

 

人には様々な欠点があります。

他人の気持ちを想像することが苦手である、短気である、話が長い、素直でない、怒りっぽい……。

人と接していくなかで、「あ、この人はここが悪いところだな」と、ぼくたちは日常的に感じとっています。ほぼ誰にでも欠点はあります。

その欠点というのは、人に恵まれていれば指摘される機会があります。「君の為を思って言うけど、ここは直した方がいいと思うよ」と。きっと誰しも、自分の欠点を指摘されたことが人生では何度かある筈です。

しかし、その欠点を克服できる人は、あまり多くありません。その人の欠点は依然として欠点のままであり、その人はその欠点を持ったまま、何十年と生きていくことになります。酷い場合には、「この人はどうしてこの欠点を一切直すことができないまま老成してしまったのか」と疑問に思うほど哀れな大人もいます。

誰でも、多かれ少なかれ「より良い人間になりたい」と思っている筈です。この「反省力」をきちんと高め、正しく行使し続けていれば、ずっとずっと良い人になるのは自明です。それなのに、なぜか反省力が少ない、もしくは全くない人がたくさんいます。それはなぜでしょう?

 

それを考えてみる前に、なぜこんな話を一生懸命しているかというと、最近ぼくがこの「反省力」という命題にぶつかっているからです。

“優しさ”とは想像力のことだと思う。という記事の中でも少し言いましたが、この前、自分の犯した過ちについてある人に酷く叱られたことがありました。

なぜ叱られたかというと、具体的には言えないのですが、抽象的に言うと、

 

SNSで個人の名前や写真を勝手に出し、その一部では当人が不快になることを書いたから」

 

でした。
その種の過ちについていくつか叱られたのですが、そのうちのひとつは、高校の演劇部について書いた記事に個人の名前や写真を載っけてしまったことについてで、ぼくはその記事の中で「ぼくはこの演劇部で、人の気持ちを考えることの大切さを学びました」とか書いておきながら、まさにそれを書いた記事において人の気持ちが全く考えられていなかったわけであり、情けなさの極みでした。

ですが何よりショックだったのは、その件について謝罪をした後、

 

「でも、叱ってくださってありがとうございます。以前からこういう配慮のなさで人に叱られることがたくさんあり、気をつけるようにしていたのですが、最近また疎かになっていたようです」

 

と言ったら、

 

「そうだよね。前からこういうこと言われてるよね。でも直ってないから、今回も言うのやめようと思ったの。だって久保くんには何を言っても変わらないと思ったから。次はないからね」

 

と言われてしまったことでした。

「久保くんには何を言っても変わらない」と思われていたんだ、というのは特にその時のぼくにとっては大ダメージでした。
なぜなら、ちょうど最近

 

「ぼくって今はダメダメだけど、もし将来成功できるとしたら、それはぼくの中のどの要素のためだろう?」

 

と考え、自分の人生を振り返ったとき、

 

「ぼくはなんだかんだ、今まで人に言われた重要な指摘を全て改善しているなぁ。そうか、ぼくの強みは“反省力”だ!この反省力によって、ぼくは今はダメダメだけど、いつかきっと素晴らしい人になれるんだ!」

 

と思い、テンションがあがっていたからでした。その矢先にそう言われてしまったので、

 

「あれ?ぼくってひょっとして反省力全然ないの?」と思い、本当にそうであればぼくの「強み」がなくなってしまうわけで、大問題だったのです。

やはり自分は変わっていないのかなぁと悩み、だいぶへこみました。

 

へこんだあと、「本当にぼくには反省力がないのだろうか?」と思い、これまでのことをよくよく振り返ってみました。

すると、

 

・話が長いと言われた➡️話が長いことの迷惑さを理解し、どんな時も短くするようにした

・エロネタを言わない方がいいと言われた➡️エロネタを言わなくなった

・大きなことばかり言って周りをあきれさせていた➡️必要がなければ自分から大きなことを言わなくなった

・労働を馬鹿にしていた➡️バイトをして労働の大切さを身に染みて理解した

・大学を辞めようと考えていたころひどく傲慢だった➡️大学は続けることにし、傲慢さも(おそらく)少なくなった

 

など、やはり自分が明らかに変化していることはいくつもあることに気がつきました。最後の2つはあいまいな基準ですが、最初の3つは態度や意識の変化ではなく、明確な行動であるので、確かに変わったと言えるでしょう。

しかし、人からはあまり「変わったね」と言われていないですし、現に今回、人から「変わってない」と言われたわけで、自分でいくら「変わってます!」と主張したとしても、人がそう思っていない限りそんなことには意味がないわけです。

 

何より、人がぼくから離れていっているという、紛れもない「結果」があります。

ぼくの最大の長所はおそらく「明るいこと」ですが、最大の短所は「無鉄砲に明るく、調子に乗ってしまうこと」だろうと思います。

特に演劇部のコミュニティにおいて、「人を茶化したり、人としてダメなところを見せた方が面白いかな?」と考えてしまい、たとえば先輩に「若くなりました?」と言ってみたり、後輩に「可愛いね」とか言ってみたり、Twitterで延々とエロネタをツイートしてみたり、そういう調子に乗ったことをしてしまうのです。

それらは「先輩、気持ち悪いです」とか言われるのですが、毎回けっこうウケているので、「嫌がっているフリをしてるけどみんな面白がってるし、ぼくは根本では愛されてるから問題ないよな。このキャラでいこう!」と考え、たまに「あんまりそういうこと言わない方がいいと思いますが」と言われても耳を貸さないできました。

 

ただ、あるときある後輩に「エロネタは本当に気持ち悪いです」と言われ、「あれ、これはガチだな。ウケていると思っていたのは自分だけで、自己満足だったのか」とようやく気づき、それ以来エロネタは封印しました。

またその他についても、基本的にぼくは愛されていると思っていたのですが、卒業してからの関係性を考えてみると、

同期の男子にうとまれるわ、先生に何度も突き放されるわ、遊びに誘われないわ、

 

「あれ?よく考えてみたら全然愛されてなくない?むしろ嫌われてない?」

 

と気づき、「これは本当にまずいかもしれない」と思い始めたのでした。

 

ただこれは、単に「そういうネタを言うことがよくない」ということではおそらくなく、なぜなら、そういうキャラで愛されている人は現に多く存在しているからです。

有名どころで言うと、非常に狭い視野の中から例を挙げますが、

 

有田哲平徳井義実

 

などがそうしたキャラで愛されていると思います。彼らがなぜ人を茶化したりエロいことを言ったりしているのに愛されるかというと、それはその人が

 

気遣いがきちんとできていたり、本当は魅力的な人格を持っているから

 

なのだろうなと思います。

茶化しやエロネタは、人を傷つけたりしないよう程度をわきまえており、さらに大事な折には「あぁ、この人はきちんと人に気遣いができているなぁ」と感心してしまうほどの気遣いができ、本当はとても優しい人である。そういう「揺るぎない信頼感」があるから、そういうキャラでも愛されているのです。

いやむしろ、単に優しく人当たりがよいだけでなく、そういう一見マイナスに捉えられそうな言動を面白おかしくすることでプラスに転じると言う技を使っているからこそ、より魅力的なキャラクターになれていると言えます。

 

実はぼくが目指していたのはそれであり、ぼくは「つい」調子に乗ってしまうこともありましたが、大半は「あえて」そのキャラクターを演じていました。

ではなぜ有田や徳井が愛されぼくが愛されないかと言うと、それは彼らが愛されている理由を逆に考えてみれば自明なわけで、

 

 

程度をわきまえていなかったから

 

 

「本当は魅力的な人格」を持っていなかったから

 

 

なのだろうと思います。

 

発言をする前に「この程度は笑えるだろう」「これを言っても人は傷つかないだろう」といちいち考えてから発言をしているのですが、その判断基準が間違っていたのです。ぼくのその判断基準はずれているか、もしくは非常にレベルが低く、「これは大丈夫だろう」が「大丈夫」ではなかったのです。

 

そして、そのネタの一部には許容範囲のものがあったとしても、それを言うぼく自身が「気遣いができず、ダメな奴」であったため、ぼくは「良い人格を持っていながらこういうネタをいうギャップがいいんだよ」と思っていたのですが、それは実はギャップでもなんでもなく、ただの「ダメなやつが無考えに言っている無神経発言」と捉えられ、つまり「ウザい」となったのだ、と思います。

 

「あぁそうか、あえてネタを言って好かれるというのは、実はめちゃくちゃ高度な技だったんだ。ぼくみたいなダメなほうの凡人が使ったら、ただ自分の品位と評価を落とすだけなんだな」とようやく気づきました。

しかしなぜこれに長い間気づかなかったかというと、ぼくは高校三年生の時はおそらくこの「技」の使用に成功していたからでした。

 

ぼくは高校3年生の時が、生活も環境も人付き合いも人格も黄金期だったと思います。あの頃は非常に落ち着いていて、独りよがりさも少なく、気遣いもたぶんある程度できており、今のように茶化しやエロネタを言っていましたが、基本的に愛されており、「気持ち悪いです」とやはり言われながらも本当には疎まれていなかったのでは思います。(といっても、ぼくの思い込みなのかもしれないので今度本当のところを聞いてみようと思いますが)

 

しかしぼくは高校を卒業する寸前に無駄にでかい夢を持ってしまい、そうなるとぼくは暴走してしまう特性があるので、「演劇部で全国大会に行きたい」という独りよがりの夢を語って周りを困らせ疎まれていた高校一年生の時の自分に、完全にではないですがかなり近い所まで戻り、つまり退化してしまったのです。これはぼくを良く知る2人の人から実際に言われたことです。

 

なので、その「技」の成功を担保していた「まともな人格」が抜け落ちてしまったにも関わらず、相変わらずその「技」を使い続けていたため、「単にうざいやつ」になってしまったのです。

 

そこまで思考を進めたぼくは、ではどうすべきかと考え、

 

「自重しよう」

 

という結論に達しました。

大学3年生になる直前にある大きな出来事があり、ぼくの独りよがりさや傲慢さはかなり無くなり、だいぶマシになった、つまり「技」を使用しても許される人格になったのかなとは思ったのですが、長らく人に嫌われていた人が、内面だけこっそり変えたところで、その「ウザい奴」というイメージはなかなか変わらないと思ったので、とりあえず「久保君大人しくなった?」と誰かに言われるまで、外面も変える、つまりエロネタも茶化しも封印しようと考え、そして真面目に実行していました。事実、ここ数ヶ月感は基本的に大人しかったと思います。

 

しかし今回、「久保君は何を言っても変わらない」という評価をされてしまった。ぼくは変わっているつもりだけど、人にそう言われるということは、事実全く変わっていないんじゃないか、それだったらぼくはもう救いようがないじゃないか、とひどく落ち込んだのです。

 

このことを、演劇部の顧問の先生に相談しました。

すると、

 

「自分で『変わった』と言うことに意味がないって気づいたなんて成長したじゃねえか。俺は、お前はある程度変わったと思うよ。

まぁ、人は簡単に変わったように見えないからな。お前だって人を見ててそうだろ」

 

と言ってくださったんですね。それでぼくは非常に救われました。ぼくのことをたぶん1番良く知っている先生が「変わった」と言ってくださり、その上『人は簡単に変わったようには見えない』という新しい視点をもらえたからです。確かにそうかもなぁと思いました。

 

ではなぜ今回叱られてしまったかというと、じっくり考えたのですが、理由がやはり2つあるのかなと思いました。それは、

 

気が緩んだから

 

 

それが新しい学びだったから

 

です。

茶化しもエロネタもしばらく封印してはいたのですが、数ヶ月も封印していると自分としてはこれまでにないことをしているのですからやはり違和感があるわけで、「ちょっと調子に乗ったことを言いたいなぁ」と思ってしまったのです。「あえて」していたキャラクターが体に染み付いてしまったのですね。

そして「最近しばらく大人しくしているし、誰にも『変わったね』とは言われてないけど、『うざいよ』とも言われてないから、たぶんこの『大人しくなるキャンペーン』は成功しているだろう。そろそろ少しぐらいいいんじゃないか」と思ってしまった、つまり油断してしまったのです。

 

それでももちろん「これは人が怒るかな?」ということはもちろん考えたのですが、結果的に怒られることになってしまったわけで、なぜそれに気づかなかったかというと、「それが新しい学びだったから」なのだと思います。

 

どういうことかというと、今回の件は色々な人に「逆の立場になったらどう思うか考えてみなよ」と言われたのですが、おそらくそれは今回のぼくに対するアドバイスとしては的を外れていて、「逆の立場になったらどう思うか」というのはぼくの大切にしているまさに「想像力」であり、ぼくはおそらくそれは意識できているのではないかと思います。

SNSに写真とか載っけるとよくないって聞くけど、ぼくはそんなことされると困るだろうか?」と想像し、「うん、大丈夫だ」と考えてしまったんですね。しかし、それはぼくの想定していた以上に世間ではタブーであり、それが嫌だと思う人がけっこういたのです。

それはぼくの中では、22歳にもなって情けないですが、かなり新鮮な発見であり、

SNSにさらされて本当に嫌に思う人がいるんだ」と初めて知ったのでした。

つまり今回、ぼくはどうダメだったかというと、「自分が逆の立場になったらどう思うか」という、これまで散々人に言われてきたことができなかったわけではなく、「自分と違う感じ方をする人がいるかもしれない」と考えることができなかったのです。

これは、これまでのぼくの心にずっと書き留めていた「反省ノート」には記述されていない学びであり、この種類の反省は初めてしたのでした。

つまり、ぼくは今回「新しい反省」をしたのであり「反省力」がなかったということではなく、今回「久保君って変わらないね」と言われてしまったからといって「ぼくは反省力がないのか。本当にダメだなぁ」と自分を全否定する必要はなく、今回の件は新たな学びとしてただ素直に反省し、「これからは気をつける」というシンプルな行動をすればよいのです。

 

これからも、自分が悪いと思ったことはきちんと反省し、少しずつ「より良い人間」に近づいていければなと思います。

 

 

……とこれで「反省力」についての話が終わりかと言うとそうでもなく、まだ冒頭の、「なぜ『反省力』が少ない人がたくさんいるのか」ということに答えていませんでした。

これはおそらく、4つのパターンに分けられるのではないかと思います。

 

①悪いと気づいているが、克服するのが面倒なパターン

②悪いと気づいているが、力不足や性質の不変性により克服できないパターン

③悪いと気づいているが、プライドにより変えられないパターン

④自分が悪いと気づいていないパターン

 

①は、たとえば自分の例で言うと、「ご飯を食べるとき猫背になるのはダメよ」と母に何十回と言われながら未だに克服できていないことなんかがそうです。「たぶんこれって悪いんだろうなぁ」と思いながら、別にそんな困ることもないし、姿勢を正すの面倒だし、「ま、いっか」と思っているパターンです。これはたとえば彼女ができたりなどして本気を出せば克服できるので、「頑張れ」で済みます。

 

②でいう力不足とは、たとえば想像力などです。「人の気持ちを想像しなさい」と言われ、そうしようと思っても、想像「力」は力なので、その力がそもそもなければすぐに克服はできないのです。

性質というのは、たとえば時間が守れない、短期などです。こうした欠点は、「直そう」と思っても、体に染み付いてしまっている性質なので、簡単には克服できません。

これらは日常で意識し続けることによって克服は可能でしょうが、特に性質の方はかなり難しいでしょう。

 

③は、「本当は自分が悪いんだろうな」と心のどこかでは気づいているのに、プライドが邪魔して変えられないパターンです。これはまぁ、ぼくはそういうプライドがないのでよく分かりません。

 

問題は、④です。これが恐ろしいくらい厄介なのです。

今日ぼくが叱った後輩は、ぼくの指摘に対し、それを直すのが面倒だったわけでも、プライドが邪魔したわけでもありません。単に、心から「自分は悪くない」と思っていたのです。

 

よく「人の言うことは素直に聞きなさい」とか「ちゃんと反省しなさい」と言われますが、「相手の言うことが正しくない」と思っているのに、その言うことを素直に聞き反省することはできません。だって納得してないんですから。

 

ぼくも、長らくそうでした。先生に「お前はこういうところがダメだ」と叱られても、自分の中ではそれは正しかったので「でもこうじゃないですか!」と口答えばかりしていました。何度そのやり取りをしたか分かりません。でも、そう言っている間は本当に成長しないんですよね。

ところが、ふとその指摘が「正しかったな」と思う時がぼくには来るんですよね、いつも。

たとえば、「話が長いと迷惑だから直せ」と言われたとき、はじめは「でもぼくは重要なことを言っているから長くても仕方ないじゃないですか」と言ったんですね。反発心からとかではなくて、普通にそれが正しい考えだと思っていました。

でも生活し、人とふれあい、誰かの長い話を聞いてうんざりしたり、自分の話をつまらなそうに聞いている人の顔を見たり、そういう経験を積み、その「経験」が一定値を超えたとき、ふと

 

「あ、話が長いって、結局『自己中』ってことなんだな」

 

と肌で感じ、ストンと自分の中に落ちたんですよね。それは先生に指摘されたことがきっかけでしたが、指摘だけでは決して分からないことでした。

 

ぼくはいつも、言葉だけでは自分の欠点や間違いに気づかず、人の指摘に反発し、「素直じゃない」と言われ、しかしその後なんらかの経験を通し、ふとその指摘の真意に気づき、「言う通りでした」と言って驚くほど素直になる……これの繰返しです。

しかし、これはたまたまぼくがそうした経験をしてきたからできていることであって、人の指摘を直すには、その指摘が「正しい」と理解するまでに自分の人間力を上げなければならず、その人間力の上げ方は「経験」という偶発性による、というのがぼくの考えです。

 

長々と話してきましたが、つまり、今日ぼくは後輩を叱り、その後輩はぼくの指摘を理解してくれませんでしたが、それを「こいつは反省力がない」と切って捨てることはできず、彼が変わるにはぼくの言葉だけではなく、彼自身がこれから何らかの「経験」を通してそれに気づくしかないのだな、と思いました。

 

こんな長い文章を最後まで読んでくれた人はおそらくいないかと思いますが、もしいたら、ありがとうございます。