読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ボククボのくよくよ日記

ボククボがくよくよしながら日々ちょっとずつ成長していく記録

“幸福の総量保存の法則”は正しいのか?

このブログでも度々紹介している作家の水野敬也さんが、先日、ブログでこんなことをおっしゃっていました。

 

「愛を説いている筈の宗教が戦争を引き起こしてる理由が分かったぞ!愛は悪を支える宿命を持っていて、愛が強まれば強まるほど悪もそれだけ強大になっていくからだ!そう考えていくと、たとえば天然痘を無くしたという一見「良い」出来事もそれだけの悪と結びついていて、だから世界の不幸の総量は全然減っていないのだ!」

 

ぼくは水野さんをとても尊敬していますし考え方も似ているのですが、この考え(以降、便宜的に「幸福の総量保存の法則」と呼びましょう)だけには、「ん?」と首をかしげてしまいました。

そしてよく考えた挙げ句、「それは違うぞ」と強く思ったので、ここにその考えを書いてみたいと思います。 

※水野さんのそのブログ記事はこちらです。ぼくのブログから入った人は先にこちらを読まないと分からない部分があります。

ameblo.jp

 

愛が強まればそれと手を組む悪も強くなる。光がある限り闇も生まれる。それはそうだと思います。ただし、ある程度は、ではないでしょうか。

その割合は、果たして5対5なのでしょうか?5の愛や光があれば、悪や闇も必ず5生まれるのでしょうか?

水野さん以外にも同じような考え方をする人は結構いて、ぼくが「世界中を平和になればいいのにね」などと言うと、「でも、誰かが笑っている限り誰かが泣くじゃん」とか「貧しい人がいるおかげで俺たちが豊かな生活ができるんだよ」とか言われることがよくあります。

人がなぜそう思いがちなのかということを考えてみたのですが、たぶん、世界が広すぎて具体的に考えにくいからだと思いました。

 

具体的に簡単に考えるために、仮に、世界中に10人しか人間がいないとしましょう。そして、Aという強くて横暴な人間が9割の食糧を独り占めにしているために、他の9人は飢えに瀕しています。

あるとき、この世界で誰かが改革を成し遂げ、平等をもたらします。Aの持つ食糧を分配し、完全とは言えないまでも10人全員の空腹がある程度満たされました。

平等をもたらしたこの改革と言う愛によって生み出されたと考えられる悪とはなんでしょうか?

それは無論、Aの食糧が減ったということでしょう。

ですがなんと、Aは不幸にはなりませんでした。なぜなら、Aは食糧の何割かを廃棄していたし、過剰な量の食事を摂取していた為に肥満や糖尿病に苦しんでいたからです。Aには無駄であった分の食糧をみんなに配分することにより、9人の空腹が満たされた上、Aも健康になり幸せになれたのです。さらに、みんなと仲良くなれたというおまけつきです。

 

どうでしょうか?この場合、愛が幸福の総量を増やしたと言えないでしょうか?

 

さて、この世界における愛の力はこれだけではありません。
Bがフロンティアを開拓し、新たな食糧を発見しました。Cが新しい農法を考え、食糧を効率的に増やせるようにしました。Dがそれらの知識をみんなに伝え、おかげでEがさらに効率の良い農法を編み出しました。

それでも、世界の幸福の総量は上がっていないでしょうか?

確かに、せっかく発見した知識をDがみんなに広めてしまったせいで、BとCは優越感が得られず悔しい思いをするでしょう。でも、それで仮に幸福量が2ポイントマイナスになったとしても、その増えた食糧が分配されてみんながお腹いっぱいになり、Eが編み出した農法によって増えた食糧をさらにみんなに(もちろんBとCにも)分配することにより、幸福量は10ポイントほどプラスされ、結果的に世界全体の幸福量は8ポイント増えたことにはならないでしょうか?

いや、と誰かは言うでしょう。「人間以外の幸福量も考えるべきだ」と。
効率的な農法は生態系を壊すかもしれないし、Aが廃棄していた食糧だって、人間が食べられなかっただけでバクテリアの栄養になっていた、と。

しかし、バクテリアまで持ち出すとまた幸福の総量保存の法則が真理であるように思ってしまうのは、人類70億人の幸福量を考える時に抽象的な思考になってしまうのと同じではないでしょうか。
10人全員の幸福量を上げることが可能であるなら、人類70億全体の幸福量を上げることも、バクテリアを含めた地球上全ての幸福量を増やすことも、理論上は可能な筈です。そもそも、極端な話、仮に超強大な核兵器で地球を破壊してしまえば地球全体の幸福量は0になって(減って)しまうので、幸福の総量保存の法則は成り立ちません。であれば、逆に全体の幸福量を増やすことも全く普通にできる筈なのです。

つまり、5の光があれば5の闇が生まれるというのは、哲学的に考えると真実なような気がしてしまうだけで、現実的に極端に考えていけば、そんなことはやっぱりないと思うのです。


次に、今回のブログで取り上げられた宗教の話を考えてみます。
宗教で戦争が起こるのは、強い愛があるためではなく、その愛がひどく独善的で排他的であるからだと思います。

日本は宗教にマイナスなイメージを持っている人が多い印象をぼくは持っていますが、基本的に愛を肯定する筈のぼくたちがそうであるのは、宗教の多くが「我々の宗教を信じている人には親切にしましょう。信じない人は良い人間ではありません」といったように、かなり不完全でねじ曲がったものであることを知っているからです。でなければ、海外に比べて信仰心に乏しい日本人だって、宗教に対してこれほど冷笑的にはならないのではないでしょうか。

本当の愛は、もっと協調的で、多様性を認めるものである筈です。
たとえば、私の尊敬する先生は「人に優しく接しなさい」と言いました。私はこの先生を愛していますが、もしその先生を批判する人がいても、その人を嫌ったり傷つけたりは決してしません。なぜなら、先生は「人には人それぞれの考え方があるのだから、自分の考えや正義を人に押し付けるな」とも教えてくれたからです。

これは当たり前の話で、愛する人やその教えに対して批判的な人を攻撃してしまうという事件が起きるのは、その愛の対象にある人の教えが間違っているか、攻撃してしまう人が浅はかで低レベルだからです。神を理由に人を殺すというのはやはり愚の骨頂以外の何物でもありませんし、心情的にも理屈的にも正当化できるものではない、とぼくは考えます。

また、この理屈は、今回の水野さんにも当てはまると思います。

自転車の話なので「レットイットビーの教えで欲求が最高に効かなくなった。ブログを書こうと思っていなければ規律を犯していた」という極論になってしまっていますが、これがもし暴力の話だったらどうだったでしょうか。

誰かムカつく人がいて「コイツぶち殺そうかな」と思った時にレットイットビーが流れたとして、水野さんはそのムカつく人を殺したり、あるいは殴ったりするでしょうか。ブログに書こうと思わなくたって、そんなことは決してしない筈です。

従って、レットイットビーの「ありのままでいいんだよ」という「愛」は「自転車を違反駐輪したい(=自分の欲求を通したい)」という「悪」を支えてはいましたが、その両者の割合は5対5ではなかった、というのがぼくの主張です。

確かに愛には悪という対抗勢力が存在するでしょうが、上手に愛を説けばその悪を減らすことも、限りなく0に近づけることも可能なのではないでしょうか?


最後に、天然痘の話です。「天然痘が無くなっても不幸の総量は減っていない」というのは真実でしょうか?

ぼくは水野さんのその文を読んだとき、北野武監督の言葉を思い出しました。
アウトレイジ」についてのインタビューで「この暴力映画が人に与える悪影響を考えなかったのですか?」と訊かれ、北野監督はこう答えたそうです。

「世の中には愛や平和を説く感動的な映画が溢れているけど、世界はちっとも平和になっていないだろ。そんなもんだよ」

と。

北野監督には失礼ですが、そしてぼくは北野監督は非常に思慮深い方だと思っていますが、これは浅はかな考えだとぼくは思います。なぜなら、世界から飢餓や戦争がなくなっていないからといって、「ちっとも」平和になっていないとは全く言えないからです。

連日ニュースで不幸な事件が報道されているので世の中には不幸ばかりだと思ってしまいがちですが、それも結局、考える対象が大きすぎるために真実が見えなくなっているだけではないでしょうか。

世の中に既に1000の不幸があり、今年さらに20の不幸が生まれたとしても、愛の力によって30の不幸が救われれば、世界の不幸は990に減ります。1%しか改善していないので「ちっとも」平和になっていないように見えますが、ちっとは平和になっているのです。また、もし30の愛に対し40もの不幸が生まれてしまったとしても、愛が全くなければ世界の不幸は1010ではなく1040になってしまいますから、やはり愛はあるべきだと言えるでしょう。

世界があまりにも巨大で不幸に溢れているため実感しにくいですが、それでも愛を説く映画は人を救っているし、天然痘の撲滅はわずかでも人類に平和をもたらした筈です。

それでも誰かは、天然痘の撲滅によって人口爆発が起きて食糧危機が……と言うかもしれません。しかし人口爆発だって、バングラデシュ政府が政策によって自国の人口調整を図って成果を出したように、愛の力によってある程度防ぐことができます。

また、先ほどの10人しかいない世界のように、人類は科学の力によって食糧を増やしつつありますし、火星移住計画だって進んでいます。もしかしたら、太陽のエネルギーをほぼ無尽蔵に使えるようにだってなるかもしれません。太陽のエネルギーをいくら使ったって、誰も不幸にはなりません。

──以上の理由から、「幸福の総量保存の法則」は、様々な見落としと抜け道のある不完全な極論だと、ぼくには思えてならないのです。

大変長くなりましたが、何故ぼくが持論をこれほど延々と書いたのか。

言ってしまえば、

 

なぜ宗教戦争と言う矛盾が起きるのかということに対しての

水野さんの『俺、気づいちゃいました』アピールに対しての

「ぼく、気づいちゃいました」アピール

ですよね。

 

半分冗談ですが、とにかく、ずっと抱いていたこの命題についての考えを自分が思いつく限りの反論を挙げながら書き尽くしてみました。
ほとんど何の勉強もしていないぼくが思考力のみで書いたものなので、論理や根拠に過不足が多々あると思いますが、いかがでしょうか。

 

最後にまとめますと、

「人が何が悪いことをしようとするとき、欲望を満たしたいと思ったとき、『真理』や『道徳』を根拠にすることで欲望が『加速』する」

という法則は真実でしょう。ただ、

「『ある程度』加速する『場合がある』」

という表現が、より真実に近いとぼくは思います。

善は悪を支えるし光は闇を生みますが、両者の割合は必ずしも5対5ではありません。8対2や9対1の場合が多くあるので(もちろん、逆の割合の場合もあります)、ぼくたちは自信を持って、善い行いをしようと、光を生み出そうと、努力して良いのではないでしょうか?

ただし、この考えにはあまり意味はないのかもしれません。なぜなら、この考えが真実であろうとなかろうと、水野さんもそうされているように、多くの人は愛に向かって全力で生きているからです。
ただ、この考えが、「俺が頑張って人のために生きてるのって無駄なのかよ!」と嘆いている誰かの希望や心の支えになれたらいいな、と思います。


少なくともぼくは、この考えを信じ、世界をより良くするために全力を尽くすつもりです。

未来との別れ

「私たち……もう終わりなの?」

 

 未来はそう言って、目に涙を浮かべた。なんと返せばいいのか分からず、思わず黙り込んでしまう。重い沈黙の時が流れた。

 

「失礼いたします」

 

 いい具合に店員が静寂を破ってくれた。さきほど頼んだショコラケーキをそっとテーブルの上に置きながら、チラリと未来の顔を見る。渋谷のカフェにいると、やはりある程度の注目は免れなかった。

 ぼくはショコラケーキを見つめながら、ふーっと息を吐いた。

 

「やっぱり……ぼくたち、もう無理だよ。続かないと思う」

「なんで?」

「未来のこだわりには、もうついていけないんだ」

 

 意を決して言うと、未来はバツの悪そうな顔をした。「それくらい」と言いかけるので、思わず制する。

 

「それくらいって程度じゃないだろ。家では服と部屋着とパジャマを分けなきゃいけない、お風呂場は順番通りに水はけしなきゃいけない、ベッドに入る時は足の裏をウェットティッシュで拭かなきゃいけない……そんな異常なこだわりをパートナーにまで押し付けて、守らないといちいち怒るんだもん。悪いけど、もう限界だよ」

 

 未来は眉間に皺をよせ、訴える様な目つきをした。

 

「でも、付き合うとき、そんな私でもいいかって聞いたらいいって言ってくれたじゃない」

「そりゃ、付き合う時はね。最初は愛があったからぼくもそれに全然合わせられたよ。でも3ヶ月も付き合ってそれが日常になってくると、いくらなんでもキツイって」

 

 未来は何か言い返そうとして口を開き、結局閉じてしまった。再び静寂が訪れる。気まずさに絶え切れず少しだけ横を向いたら、隣りのテーブルにいる人がこちらを向いているのに気がついた。制服を着た男子高校生2人組だ。「あれひょっとして……」「だよな」と興奮してこっちを見ている。ひとにらみすると、2人ともすぐに首の向きを元に戻した。「誰だよ」と微かに聞こえた気がした。

 

「あと一つ聞いていい?」未来が暗い声で言う。

「何?」

「どうして抱いてくれないの?」

 

 思わずむせそうになった。普通の声量だったけど、耳を澄ましているだろう隣りの男子高校生にはたぶん聞こえている。

 

「最近、私がいくら頼んでも全然抱いてくれないじゃない。疲れたとか明日早いとか言い訳ばっかりして。なんで?」

「そ……それは……」思わず口ごもる。

「抱くどころかキスもしてくれないし、手さえ繋いでくれなくなったじゃない!私じゃ不満?それとも、何か特殊な性癖でもあるの?」

 

 攻撃をやめない。うつむくぼくに、また強い口調になった。

 

「なんとか言いなさいよ!」

「だから……かみ……と……たから」

 

 我ながら情けないぐらい、声がかすれた。

 

「何?聞こえない」

「だから……神本竜之介と付き合ってたって言ったから!」

思い切って言ってしまった。ぼくが未来と続けられない、本当の理由。

「え?」未来が目をぱちくりさせる。

「それが……何?」

「1ヶ月くらい前に、実は神本竜之介と付き合ってたって言っただろ……それが嫌なんだよ……」

「そ……それの何が問題なの?もう10年くらい前のことで、終わったって言ったでしょ?それを信じてないわけ?」

「信じてるよ」

「じゃあなんでよ!」

「ぼくは……」

 

 言いたくない、言いたくない。でも未来の鋭い眼光が、ぼくを観念させた。

 

「ぼくは、一度も異性と付き合ってない子と付き合いたかったんだ……」

「はあ?」

 

 怒っているのではなく、単純に理解できない「はあ?」だった。眼光は鋭いままだったけど、一度言ってしまえば、あとは言わないでいる方が辛かった。

 

「最初の彼女は、ぼくが初めての彼氏になる人にするって、ずっと前から決めてたんだよ。中学生の時から10年近くずっと夢見て来たし、自分の中の鉄則にしてたんだ。なのに、未来は違った。ぼくのその絶望が分かる?」

「何それ?そんなこと気にするの?」

「気にするんだよ、男は。分かんないと思うけど」

「じゃあ付き合う前に聞けば良かったでしょ?」

「聞ける訳ないだろ!未来と付き合う時に『付き合ったことありますか?』なんて!」

 

 思わず激しい口調になる。声を抑えるのに必死だった。

 

「それに……聞くまでもないと思ってた。あまりにも純粋な子だったから、異性交友なんてしてないって信じてた。信じてたんだ!」

「勝手に信じないでよ!」

「だって、あんな純粋な役ばっかりやってるの見たら信じるじゃん!それなのに、実は神本竜之介と……イチャイチャしてたなんて!」

「何よ!私の体が汚れてるって言うの?」

 

 ついに本気で怒り始めた。少しだけ周りの客が注目した気がする。

 

「未来の体は綺麗だよ。でもなんか……概念的にダメなんだよ。この綺麗な体を神木竜之介が触ったと思うと、色々考えちゃうんだよ。だからつい触れなくなっちゃうんだよ……」もはやぼくの方が泣きそうだった。

「別に……異性交遊が汚らしいだなんて、偏見じゃない」

 

 未来は言ってから、あ、と何かを思い出したような顔をした。

 

「じゃあ何、『14歳の母』の未来(みき)だって汚れてたって言うの?ああいう風に美しく結ばれる場合だってあるでしょ?」

「あれだって本当は嫌だったよ!14歳であんな役をやるなんて!ちょっと前まで女王の教室で小学生を演じてた子が……あんな役をやるなんて、正直ありえないくらい複雑な気分だったんだ。しかも、相手が三沢春馬だなんて……。イケメンじゃないか!ひょっとして、本当に三沢春馬とそういう関係になったんじゃないかとか思っちゃうんだよ!」

「春馬とは何の関係もないわよ」

 

 口調は極めて普通だったけど、一瞬だけ目が泳いだのをぼくは見逃さなかった。

 

「ちょっと待ってよ!なんでいま一瞬目が泳いだんだよ!ていうか春馬ってなんだよ?下の名前で呼ぶなんておかしいでしょ!」

「何にもないって言ってるでしょ」露骨に不機嫌になる。

「ほら!ムキになるってことはやっぱりなんかあったんだ!神本竜之介に続いて三沢春馬もかよ……」

 「違うって言ってるでしょ!付き合ったのは竜之介だけよ!」

「ふーん。でも、本当はまだ好きなんじゃないの?」

「好きじゃないわよ!佐藤ひなこなんていう巨乳女に浮気して!男としては最低だったわ」

「本当に最低だよ!」

 

 もう話が変な方向に行っている様な気がしたけど、ヒートアップしてしまっては2人とももう止まれなかった。

 

「あ、じゃあ、山崎涼介は?コンサート行ったんでしょ?」

「それは、探偵学園Qで共演して友達になったからよ」

「ふーん。あんなにカッコいいやつがダンスしているの見て、ちっとも惹かれなかったんだ?」

「私は顔で男の人を選ばないって言ってるでしょ!」

「でもさあ、やっぱりもう信じられないよ。これからどう付き合って行けばいいんだよ。ねえ教えてよ。一体誰が好きなの?三沢春馬?山崎涼介?神本竜之介?」

「崇史よ!!!」

 

 未来が立ち上がり絶叫した。え、とぼくの口が半開きになると同時に、店中の客がこちらを振り向く。

 

「三沢春馬が何よ!山崎涼介が何よ!神本竜之介が何よ!みんな顔だけじゃない!私は崇史が好きなのよ!!」

 

 ついに大声で泣き出す。ぼくは口をポカーンと空け、ただ未来の顔を見つめていた。

店内中の客が口々につぶやくのが聞こえる。

 

「何?」「あの子、もしかして……」「何で泣いてるの?」「あの男彼氏?」「いやあのコの彼氏にしてはダサすぎでしょ。それに外国人じゃん」「じゃあ崇史って誰?」「さあ」

 

 呆気にとられたまま、ぼくは声を絞り出した。

 

「み、未来……ごめん、ぼく──」

「もういいわよ!そんなに私のことが信用できないんでしょ!」

「違うよ。ぼくは好きだから、ただ嫉妬しちゃって……」

「今更そんなこと言ったって遅いわよ!そんなにこだわるならずっと一度も付き合ったことない人にこだわってればいいじゃない!だいたい22歳にもなって彼女できたことないってのがおかしいのよ!そんなつまんないことを無駄に気にするのも、あなたが子供だからでしょ?それにね、他にもこだわりが多すぎるのよ!自分より背が低くて黒髪じゃないと駄目?優しくて正義感がないと駄目?年齢は自分より上だったら絶対駄目だけど未来ならいい?はあ?何様よ!その上彼氏できたことないなんて人、この日本にどれだけいるのよ!ずっと探してれば?あなただけのお姫様を、50歳になってもずっとね!!」

 

 いくらなんでも言い過ぎだ。ここまで言われてぼくも黙っているわけにはいかなかった。勢い良く立ち上がる。

 

「そんなこと言ったら未来だって同じだろ!うどんは3本ずつとらなきゃだめ?服はたたんでから着る?そんな異常なこだわりに全部合わせてくれる人なんて日本中探しても誰もいないよ!だから神木だって浮気したんじゃないの?やっぱり神本の気持ちが分かるわ!!」

「じゃあなんで私のことを好きになったのよ!!」

「綺麗だからだよ!!」

 

 え、と未来が不意をつかれたような顔になる。え、とぼくも困惑した。感情とは裏腹に、気づけば口をついて出てしまっていた。でも言った途端、未来に対する想いが溢れてきた。

 

「顔はもちろんだけど……魂が綺麗だからだよ!芸能界でどれだけチヤホヤされても謙虚でまっすぐで、努力家な姿に惚れたからだよ!」

 

 未来が口をパクパクする。顔が真っ赤だ。

「もっと言おうか?正義感が強い所!ツナを美味しそうに食べる横顔!なるべく正直であろうとするところ!手作りの料理が美味しいところ!子供のような寝顔!どれも大好きだよ!!」

 

 絶叫だった。ハアハアと肩で息をする。もはや店内中の客全員が一言もしゃべらずぼくたちを見ていたけど、全く気にならなかった。

 

「こっちこそ聞かせてもらうけど、そんなに言うんだったら、未来はなんでぼくのこと好きになったわけ?」

「それじゃ、言わせてもらうわよ」涙をぬぐって、未来は目を見開いた。

「全部よ!優しいところも、真っ直ぐな目も、正義感が人並み外れて強いところも、子供っぽいところも、嘘が下手なところも、キスがうまいところも、全部大好きよ!」

 

 未来も肩で息をし、2人はしばらく黙って見つめ合った。そして、2人同時にえーんと声をあげて泣き始め、抱き合った。

 

「好きだ」

「私もよ」

 

 未来の髪が鼻に当たる。シャンプーの香りがした。いつまでも、こうして抱きしめていたかった。それでも、言わなければならない。

 

「でも」とぼくが言うと、

「もう」と未来が応えた。

「続けられない」

「うん」

「こうなる運命だったんだ」

「そうね」

「お互いの幸せのために」

「別れましょう」

 

 合図もせず、2人は同時に手を放した。再び見つめ合う。ありったけの力を振り絞って、ぼくは笑った。

 

「未来はさ、名前の通り、未来に向かって生きなきゃ駄目だ。こんな、過去を引きずるような男より、もっと良い男と付き合うべきだよ」

「崇史も、こんなわがままな女より、もっと素敵な人が見つかるよ」

「ありがとう。じゃあ、お互いの未来のために」

「ええ」

 

 最後は、2人声を揃えて言った。

 

「さよなら」

 

 2人同時に鞄を手に取って歩き出そうとしたとき、割れんばかりの爆発音が響いた。え、と思い周りを見ると、それは店内中の客の拍手だった。

 

「素晴らしい!2人は素晴らしいです!」

「いいものを見せてくれてありがとうございました!」

隣りの席にいた男子高校生2人が叫ぶ。顔を真っ赤にして号泣していた。他にもあちこちから「素敵ね!」「彼氏も男だぜ!」などと聞こえてくる。

 

「みなさん……ありがとう!」

 

 未来が言い、お辞儀した。ぼくも合わせてお辞儀したあと、男子高校生に向き直った。

 

「君たち……彼女はいる?」

「います」「ぼくはいません」と、2人が口々に答える。

「そうか」ぼくはふっと笑ってから、いないと答えた方を指差した。

「彼女を作るコツは、焦って下手に彼女を作ろうとしないことだ。まずは男を磨け。そしたら、自然と女はついてくる」

「はい!」

「それから君」もう一人の方を指差す。

「彼女に優しくしてやれよ?ぼくみたいに、泣かせないようにな」

「はい!」

 

 2人とも満面の笑みでうなずいた。

 

「じゃ、行こうか、未来」

「ええ」

 

 2人が歩き出すと、拍手がいっそう大きくなった。大勢の人々の笑顔と泣き顔に囲まれながら、ぼくたちは店を後にした。

ガクセイ基地を辞めました。

「毎日ブログを更新する」と言いながら、1ヶ月半ぐらいサボっていました。やる気がなくなったからとか辛くなったからとかではなく、注力すべき方向が変わったために更新する必要がなくなったからです。「まぁどうせ誰も読んでないしいいだろ」って思ってたんですけど、1人「楽しみに読んでるからまた書いてよ!」と言ってくれた人がいて、さらにたぶん読んでないだろうなぁと思っていた人が読んでくれていたことも分かって、とても嬉しかったので、少し再開してみようと思います。

 

ちょっと言うのが遅くなったんですが、年末にガクセイ基地を辞めました。一度辞めて入り直したのに、二度も辞めることになってしまいました。そのことについてちょっと書きます。

 

 

ぼくは一度辞めたガクセイ基地に戻って来たとき「ちょっと視野が広がればいいか」というぐらいであまり高いモチベーションがなかったのですが、ある時から急にやる気が出て来ました。

それは、

 

学生のうちに、何か大きな「成果」を残したい

 

と思ったからです。

ぼくは将来大物になりたいという欲がとても強いのですが、どうせなら大人になってからではなく、中途半端なことばかりだった大学生活の中で何か一つ「これをやった!」と胸を張れるものが欲しくなったのです。

 

また、志田未来に会いたいという気持ちもありました。

ぼくは10月ぐらいから急に女優の志田未来が大好きになったのですが、なんとかして会いたい、そのためにはガクセイ基地のPV数(記事発信力)を今の25倍ぐらい上げて彼女を取材できるようにならなければならないと思ったのです。

 

なので、それまでゆるゆると活動していたのに、急に「100万PV達成するぞ!」とか言って燃え始め、メンバーを少しきつく鼓舞したりしていたのですが、

そのモチベーションは1ヶ月ぐらいでなくなっていき、いつの間にかメンバーを鼓舞するどころかぼく自身がだらしなくなり、ついには突然の退団をしてしまいました。

 

なぜこんな身勝手なことになってしまったかというと、

 

 

このままでは大きな成果を出せないと思ったから

 

と、

 

組織を変えるよりまずは自分を変えることに注力した方が良いと思ったから

 

 

です。

 

PV数を上げるためには、質の高い記事を書くだけではなく、大量にある過去の記事にタグ付けをしたりサイトのデザインを変えたり面白い企画を念入りに考えたり、やらなければならないことがたくさんあるのですが、どれも中途半端になっちゃったんですよね。

「よーしやるぞ!」という気持ちはある筈なのに、なぜか行動ができない。コツコツと地道な努力ができず、無駄にTwitterを見たりしてしまう。

ノートに書いた計画ばかりが立派で、現実が全く追いついていない。そんな状態が2ヶ月ほど続き、100やろうと思っていた中の2くらいしかできていないという現実にぶちあたったとき、ついに心が折れてしまったのです。

 

「どうしてぼくは努力ができないんだ?」

 

と。

なぜ夢はあるのに、そのための適切な、猛烈な努力ができないのか分からない。

 

でも、思えばぼくは、昔からそうでした。

 

「発明王になる」「ノーベル賞をとる」「演劇部で全国大会に行く」

 

そんな大きすぎる夢を持ち、しかも公言しておきながら、その為の努力をほとんどしない人でした。単発的に猛烈な努力をする時はありましたが、本当に目標を達成する為に大切なのはたぶん持続的な努力で、それができたことはありませんでした。

 

高校を卒業する前に本当の夢ができた時は、今度こそ努力できると思いました。しかし、大学生活を2年半送ってもなお、きちんとした努力ができないままでいる……そんな自分にほとほと嫌気が差し、ぼくはついに気づいたのです。

 

「このままではダメだ」

 

と。

こうなってしまっているのはぼくの中に根本的な欠陥がある筈で、それを直さない限り、ぼくは一生平凡なままだと思いました。

 

また、ぼくは副代表という役職をもらっていたので、ガクセイ基地を引っ張ろうと思っていましたが、組織をまとめたり引っ張ったりするのもまだ無理だと思いました。

 

この前、ある人に言われました。

 

「人を助けたいとか言う前に、まずは自分をどうにかしたら?」

 

それは努力がどうこうとかではなく、ぼくの人間性の欠陥について言われた言葉だったのですが、そのとき

 

「自分がダメなのなんて百も承知だよ。でも、人間なんて不完全なんだから、そんなことを言っていたらいつまでたっても人なんて助けられないじゃないか」

 

と思いました。

でも、振り返ってみると、やはりこの言葉は真実なのかもしれません。
ぼくは組織を変えることよりもまず、自分を変えることにしました。

 

そこで自分を変えるにはどうすれば良いか一生懸命考えたのですが、考えたあげく、ある素晴らしい答えにたどり着きました。

でも完璧だと思ったその考えがなぜか難航していて、一体どんなものかはその結果が出るまでまだ言いたくないのですが、とにかくあるチャンスを待っています。

 

「自分はどうして思うように頑張れないのだろう」

たぶんこうした悩みは、多くの人が持っているのではないかと思います。ぼくは自然に自分が変わるのを待つのではなく、今やっている活動を投げ出して自分を変えることに注力しようと考えました。

組織を変えるのではなく、自分を変える。
この考えが正しいのか、間違っているのか……いつかきっと、分かると思います。

“夢をかなえるゾウ”の作者のブログがすごい!!

この前、超オススメ自己啓発書 “夢をかなえるゾウ” 紹介!という記事を書きましたが、この本の作者である水野敬也という作家さんはブログを書いています。このブログを最近毎日ずーっと読んでいるのですが。もうめちゃくちゃ、それはもうめちゃくちゃすごいのです!!

このブログの魅力について語り尽くします。 

 

まず、水野敬也という人物について紹介しましょう。

 

f:id:bokutaka:20161130152731j:plain

 

水野敬也

処女作「ウケる技術」がベストセラーに。4作目の著書「夢をかなえるゾウ」は220万部を突破し、小栗旬水川あさみを主役にした実写ドラマが放送されるなど、一気にブレイクした。

その後も意欲的に執筆を続け、「人生はニャンとかなる!」や「それでも僕は夢を見る」「LOVE理論」「スパルタ婚活塾」「温厚な上司の怒らせ方」などのヒット作を生み出し続けている。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

 

「夢をかなえるゾウ」は本当に大ベストセラーで、テレビでもかなりニュースになったので、「あぁ、あれの作者か」とピンとくる人は少なくないでしょう。ぼくもその本を発売当時に読み「作者の人、面白いし頭いいしすごいなぁ」と思ったものの、そのあとの活躍については正直耳にしたことがなく、まさかこんなに多くの著書を生み出し続けている作家さんだとは知りませんでした(ごめんなさい)。

 

で、そんな水野さんがビジネスとしてではなく、ただの趣味の範囲として精力的に書いているブログが、こちら

 

f:id:bokutaka:20161130153958p:plain

 

“ウケる日記”です。

 

そう、このブログ、ウケるのです。半端じゃなく。

もうほとんどどの記事も声を出して笑うレベルで、よくもまあこんなに「笑い」を量産できるなぁと感心してしまうほどなのです。

 

まぁ面白いだけのブログなら他にもたくさんあると思うのですが、このブログの優れた点は3つあります。

 

①ほとんど文字だけで書いていること

 

②本当にくだらないし過度なネタが多いが、それでも好きにさせてしまうこと

 

③くだらない記事の中の真面目な記事が非常に実用的であったり感動的であったりすること

 

です。ひとつずつ説明していきます。

 

 

①ほとんど文字だけで書いていること

 

普通、ブログというのはより読まれるため、ふんだんに写真を使ったり、文字の色を変えてみたり、人によっては絵を描いてみたり色々な工夫をするものだと思うのですが、

 

このブログでは、まれに写真を使うことはありますが、あとは面白い所の文字を極端に大きくすると言う手法を使うのみで、純粋に「文章」だけで人を笑わせているのです。

 

こんな具合に。

 

f:id:bokutaka:20161201020219p:plain

 

(といっても、最近は割と写真を使われているようですが)

 

ブログを読みゲラゲラ笑いながら、「よく考えたら、表情でも絵でもなく、ぼくはこの人の書いた文章だけで笑っているぞ」と気づいたんですけど、それってすごいことだなと思ったんですよね。

ブログにも書きましたが、最近ぼくは「自分の強みは文章を書くことだ」と思い始めたばかりなので、「文章だけで人をこれほど笑わせ楽しませることができるんだ」というのは大きな希望になっています。

 

ぼくはこのブログに大変な感銘と影響を受けてしまい、昨日のぼくのブログは、実はこのブログの手法を真似しました。

 

このブログは行間、言葉の強調の仕方、構成に大きな特徴があると思っているのですが、それをリスペクトし、ある程度模倣してみました。彼は「夢をかなえるゾウ」の中で「人の真似をすることが大事だ」と主張していますから、遠慮なくパクらせてもらいました。

といってもいきなり変えすぎると「おいどうした?」となってしまうので近づけたのは50%くらいでしたが、これから徐々に、この文体を完コピと言えるほど模倣してみたいと思います。(もちろん、ある程度完コピできたら、その後はまた別のブログの文体を完コピするか、ぼくのオリジナリティを加えます)。

 

本当にくだらないし過度なネタが多いが、それでも好きにさせてしまうこと

 

このブログで真面目な記事は1割ほどしかなく、残りの9割は、自画自賛と誹謗中傷と自分のダメさの露呈とエロネタで構成されています。

 

自分のことを「日本の国宝だ」と自画自賛し、プロサッカー選手の遠藤をブスと言い放ち、英語がいかに話せないかをさらけ出し、さらに好きなエロ漫画について延々と真剣に語っています。

普通では人が避けてしまう内容を、どう見ても積極的に書き続けているのです。

 

「夢をかなえるゾウ」は、「ただのギャグ小説じゃねぇか」と感じさせながら、しかし内容は膨大な知識に裏付けされ、しかも最後は大きな感動とともにとても大切なことを教えてくれるという傑作でした。

なので、読者は「作者の方は、ふざけながらも本当はすごく真面目で頭のいい人なんだなぁ」と思うのですが、しかしブログの記事の大半があまりにもくだらなすぎて、

 

「やっぱりこの人はただの変態なんじゃないか?」とうっかり信じてしまいそうになるぐらい、それほど徹底的にくだらないことを書いておいて、しかしその次のページではとても真面目で感動的な記事を書くので

 

「あぁ、そうか、この人はベストセラーを書いた大先生だった」と思い出し、ところがその後にまたクソくだらない記事が書かれているので

 

「あれ、やっぱり大したことないんじゃ…」と心配になる、そのジェットコースターの繰返しなのです。そのギャップは本当に凄まじく、よくこんな振り幅の大きい記事が書けるなぁと感心してしまいます。

 

 でも、なぜ水野さんは真面目な記事だけでなく、そんなくだらないことをわざわざ書くのでしょうか?

それは、昨日のぼくの記事を読んでくれた人がもしいたら察してくれていると思いますが、

 

あえて人を馬鹿にしたりエロネタを言ったり、マイナスにとらえられそうなことを面白おかしくやることでプラスに転じる」という高等テクニックを駆使することにより、「ただの優しいインテリキャラ」よりもさらに魅力的なキャラクターになる、と思っているから

 

です。

 そう、これが本当に素晴らしい点なのですが、彼はどれだけめちゃくちゃなことを言ってもー孫正義をボケェ!ハゲェ!と言ったり、「雨の打ち所が悪くて死ね!」と言ったり、「100年後に貧乳は絶滅します」と言ったりしてもー

 

全く嫌な気持ちにならない

 

んです。

いや、さすがにブスと言われた遠藤や遠藤のファンなんかはもしかしたら怒るかもしれないですし、「石原伸太郎をシメてやろうかなと思います」と言った時には「この人殺されるんじゃないか?」と思ったりしましたが、それでも、どんだけ暴言を吐いても変態さを晒しても、読者は嫌な気持ちにはならないのです。

これは、彼が本当はとても利他的で愛に溢れている素晴らしい人格を持った人であるという揺るぎない信頼感に裏打ちされた上で、そうしたマイナスな言動を全て「人が傷つかないように面白く」読まれるように計算して書いているからなのです。

 

これはまさにぼくが目指した境地であり、ぼくができないでいるものを完璧な状態で体現している成功例なのです。

 

なのでぼくはこの人が本当に羨ましいですし、尊敬していますし、好きだなあと思います。

 

 

③くだらない記事の中の真面目な記事が非常に実用的であったり感動的であったりすること

 

そうしたくだらない記事ばかりの中で、たまに真面目な記事があるのですが、それらは本当に素晴らしい内容なのです。

 

ひとつ例を挙げると、これ。「今はまだ埋もれている経営者へ」という記事の一部です。

 

f:id:bokutaka:20161201031025p:plain

 

どうでしょう?すごくないですか、これ。とてもじゃないですが、

 

ロマンポルノを見るという意味で、水野はプロフェッショナルですよね。いわば、エロフェッショナルですよね。」

 

と同じ発言をした人物の書いた記事とは思えません。

しかし、普段がくだらないからこそこうして真面目な記事が際立つのです。

 

彼は

 

 

「実用知識をできるだけ多くの人に伝えて、人の『現実』を変える」

 

 

ことが使命だと公言しています。その使命のために、朝から晩まで自室に籠もり、黙々とキーボードを打ち続けているのです。きっと相当な努力家であり、その頑張りを支えているのは、

 

「世界を良くしたい。人を幸せにしたい」

 

という、純粋な利他心と燃える情熱なのだろうなと思います。

 

 

 

さて、「夢をかなえるゾウの作者のブログ」の素晴らしさを紹介すると見せかけておいて「夢をかなえるゾウの作者」の素晴らしさを紹介してしまいましたが、それほどぼくは今、この方にはまっています。

 

おこがましいかもしれませんが、この水野敬也という人物にはとてつもない運命を感じるからです。

 

そもそも、ぼくが10年ほど前に読んだ「夢をかなえるゾウ」の事を思い出し、ネットで「夢をかなえるゾウ 作者」と検索をしたのは、ぼくが「そろそろ成長したい」と思ったからでした。

どういうことかというと、「できるだけ多くの人を助けたい」と決意してから3年半が経ち、人格的には様々な変化があったものの、能力的にはほぼ全く成長しておらず、夢が大きいくせに頑張れない自分にほとほと嫌気がさしていたのです。

そしてある時に思ったのは、

「そもそも、1人で変わろうとするからいけないのではないか」

ということでした。

「成功の為の自己啓発書の作者なんかにぼくの成長と成功をサポートしてもらったらどうだろう」と考えたぼくは、これまで読んだ中で1番お気に入りだった自己啓発書である、「夢をかなえるゾウ」を手に取ったのでした。

 

そして水野さんのことをよく知ろうと思いこのブログを読み、笑ったり感動したりしながら、ゾクゾクしてきたのです。

 

・ぼくが強みにしたいと思った「文章」で勝負していること

・利他的であること

・あえてくだらないことを言うキャラクターを演じていること

・自分をなるべく凡人に見せようと努力していること

 

全てがぼくのストライクゾーンで、「あぁ、この人に会いたい!」と思ったのです。

そしてさらに調べていくと、会う為の条件を2つぼくは考えていたのですが、なんと水野さんはその条件を2つとも満たしており、ぼくは

 

「会える」

 

と確信しました。

これは冗談でも大げさでもなく本当にそう思っていて、何十万部というベストセラーを今も生み出し続けている大作家に、まだ無名で夢いっぱいなだけのただのダメ人間であるぼくが、ある簡単な努力を誠実にすることにより、99%、会うことができます。

 

しかもそれは年内、つまり1ヶ月以内におそらく可能であり、さらに運が良ければ、その出会いがぼくの人生を激変させるでしょう。

この水野敬也という人物が、非常に近い将来ぼくを変えてくれるきっかけになることを確信しています。

“反省力”について

高校時代に所属していた演劇部の卒業生同士で集まり劇を創るということを9月からしていて、今日もその練習に言って来たのですが、帰りにある後輩とご飯を食べに行きました。先日会った時のその後輩のある行動が良くないなと思うことがあったので、そのことについてお説教をしようとしたためでした。

その後輩には前から色々とずれているところがあるんじゃないかなとぼくは感じていて、以前も2度叱ったことがあるのですが、今日も叱ってみると、反論ばかりされてしまいました。

 

「それは悪かったと思いますが」と一部は非を認めつつも、「それはこうだったんです」とか「それはそっちが悪いんじゃないですか?」とかの言葉が非常に多く、ほとんど納得できていないようでした。

さらに、以前叱った件についても、

 

「あの件に関しても、ぼくは悪くなかったと思います」

 

と言い出してきて、「なぜ悪くなかったか」という言い分を延々と語られてしまいました。その言い分がぼくの盲点であったり、納得できるものであったならよかったのですが、ぼくは「その言い分は違うんじゃないかなぁ」と感じました。  

そして、延々とその言い分を聞いた後に思ったのが、

 

「あぁ、この人はたぶん成長しないなぁ」ということでした。

 

いや、そう決めつけたわけではないです。

彼には彼なりの筋道通った言い分があったので、それをぼくか理解できなかっただけで、彼は本当は悪くないのかもしれません。ぼくがただ「先輩」という立場から傲慢にも叱ろうとしたけれど、それが全く的外れだったのかもしれません。それであれば彼はあの場では正しい主張をしただけで、全然成長できるでしょう。

 

ただ、その言い分が正しいかどうかを判定する第三者がその場に大勢いなかったので、どちらが悪いとか正しいとかは、「ぼくには分からないから他の人にも聞いてみな」とだけ言い、議論は避けました。

ただ、もし一般的にも彼が間違っているのであれば、彼はその過ちをぼくが指摘しているのに直そうとしていないわけですから、非常にもったいないというか、成長しないだろうなと思うのです。

 

「こうしたのは間違ってるよ」とか「ここが君の短所だよ」と言われたとき、それを素直に認め、直す。

ぼくはこれが非常に大事だと思っていて、これをできる人とできない人では圧倒的な差が生まれると信じています。これは特性や気質などではなくひとつの力であり、一言で言い表すなら、

 

「反省力」

 

と言えるのではないかと思います。

今日はこの反省力について長々と書いてみます。

 

 

 

人には様々な欠点があります。

他人の気持ちを想像することが苦手である、短気である、話が長い、素直でない、怒りっぽい……。

人と接していくなかで、「あ、この人はここが悪いところだな」と、ぼくたちは日常的に感じとっています。ほぼ誰にでも欠点はあります。

その欠点というのは、人に恵まれていれば指摘される機会があります。「君の為を思って言うけど、ここは直した方がいいと思うよ」と。きっと誰しも、自分の欠点を指摘されたことが人生では何度かある筈です。

しかし、その欠点を克服できる人は、あまり多くありません。その人の欠点は依然として欠点のままであり、その人はその欠点を持ったまま、何十年と生きていくことになります。酷い場合には、「この人はどうしてこの欠点を一切直すことができないまま老成してしまったのか」と疑問に思うほど哀れな大人もいます。

誰でも、多かれ少なかれ「より良い人間になりたい」と思っている筈です。この「反省力」をきちんと高め、正しく行使し続けていれば、ずっとずっと良い人になるのは自明です。それなのに、なぜか反省力が少ない、もしくは全くない人がたくさんいます。それはなぜでしょう?

 

それを考えてみる前に、なぜこんな話を一生懸命しているかというと、最近ぼくがこの「反省力」という命題にぶつかっているからです。

“優しさ”とは想像力のことだと思う。という記事の中でも少し言いましたが、この前、自分の犯した過ちについてある人に酷く叱られたことがありました。

なぜ叱られたかというと、具体的には言えないのですが、抽象的に言うと、

 

SNSで個人の名前や写真を勝手に出し、その一部では当人が不快になることを書いたから」

 

でした。
その種の過ちについていくつか叱られたのですが、そのうちのひとつは、高校の演劇部について書いた記事に個人の名前や写真を載っけてしまったことについてで、ぼくはその記事の中で「ぼくはこの演劇部で、人の気持ちを考えることの大切さを学びました」とか書いておきながら、まさにそれを書いた記事において人の気持ちが全く考えられていなかったわけであり、情けなさの極みでした。

ですが何よりショックだったのは、その件について謝罪をした後、

 

「でも、叱ってくださってありがとうございます。以前からこういう配慮のなさで人に叱られることがたくさんあり、気をつけるようにしていたのですが、最近また疎かになっていたようです」

 

と言ったら、

 

「そうだよね。前からこういうこと言われてるよね。でも直ってないから、今回も言うのやめようと思ったの。だって久保くんには何を言っても変わらないと思ったから。次はないからね」

 

と言われてしまったことでした。

「久保くんには何を言っても変わらない」と思われていたんだ、というのは特にその時のぼくにとっては大ダメージでした。
なぜなら、ちょうど最近

 

「ぼくって今はダメダメだけど、もし将来成功できるとしたら、それはぼくの中のどの要素のためだろう?」

 

と考え、自分の人生を振り返ったとき、

 

「ぼくはなんだかんだ、今まで人に言われた重要な指摘を全て改善しているなぁ。そうか、ぼくの強みは“反省力”だ!この反省力によって、ぼくは今はダメダメだけど、いつかきっと素晴らしい人になれるんだ!」

 

と思い、テンションがあがっていたからでした。その矢先にそう言われてしまったので、

 

「あれ?ぼくってひょっとして反省力全然ないの?」と思い、本当にそうであればぼくの「強み」がなくなってしまうわけで、大問題だったのです。

やはり自分は変わっていないのかなぁと悩み、だいぶへこみました。

 

へこんだあと、「本当にぼくには反省力がないのだろうか?」と思い、これまでのことをよくよく振り返ってみました。

すると、

 

・話が長いと言われた➡️話が長いことの迷惑さを理解し、どんな時も短くするようにした

・エロネタを言わない方がいいと言われた➡️エロネタを言わなくなった

・大きなことばかり言って周りをあきれさせていた➡️必要がなければ自分から大きなことを言わなくなった

・労働を馬鹿にしていた➡️バイトをして労働の大切さを身に染みて理解した

・大学を辞めようと考えていたころひどく傲慢だった➡️大学は続けることにし、傲慢さも(おそらく)少なくなった

 

など、やはり自分が明らかに変化していることはいくつもあることに気がつきました。最後の2つはあいまいな基準ですが、最初の3つは態度や意識の変化ではなく、明確な行動であるので、確かに変わったと言えるでしょう。

しかし、人からはあまり「変わったね」と言われていないですし、現に今回、人から「変わってない」と言われたわけで、自分でいくら「変わってます!」と主張したとしても、人がそう思っていない限りそんなことには意味がないわけです。

 

何より、人がぼくから離れていっているという、紛れもない「結果」があります。

ぼくの最大の長所はおそらく「明るいこと」ですが、最大の短所は「無鉄砲に明るく、調子に乗ってしまうこと」だろうと思います。

特に演劇部のコミュニティにおいて、「人を茶化したり、人としてダメなところを見せた方が面白いかな?」と考えてしまい、たとえば先輩に「若くなりました?」と言ってみたり、後輩に「可愛いね」とか言ってみたり、Twitterで延々とエロネタをツイートしてみたり、そういう調子に乗ったことをしてしまうのです。

それらは「先輩、気持ち悪いです」とか言われるのですが、毎回けっこうウケているので、「嫌がっているフリをしてるけどみんな面白がってるし、ぼくは根本では愛されてるから問題ないよな。このキャラでいこう!」と考え、たまに「あんまりそういうこと言わない方がいいと思いますが」と言われても耳を貸さないできました。

 

ただ、あるときある後輩に「エロネタは本当に気持ち悪いです」と言われ、「あれ、これはガチだな。ウケていると思っていたのは自分だけで、自己満足だったのか」とようやく気づき、それ以来エロネタは封印しました。

またその他についても、基本的にぼくは愛されていると思っていたのですが、卒業してからの関係性を考えてみると、

同期の男子にうとまれるわ、先生に何度も突き放されるわ、遊びに誘われないわ、

 

「あれ?よく考えてみたら全然愛されてなくない?むしろ嫌われてない?」

 

と気づき、「これは本当にまずいかもしれない」と思い始めたのでした。

 

ただこれは、単に「そういうネタを言うことがよくない」ということではおそらくなく、なぜなら、そういうキャラで愛されている人は現に多く存在しているからです。

有名どころで言うと、非常に狭い視野の中から例を挙げますが、

 

有田哲平徳井義実

 

などがそうしたキャラで愛されていると思います。彼らがなぜ人を茶化したりエロいことを言ったりしているのに愛されるかというと、それはその人が

 

気遣いがきちんとできていたり、本当は魅力的な人格を持っているから

 

なのだろうなと思います。

茶化しやエロネタは、人を傷つけたりしないよう程度をわきまえており、さらに大事な折には「あぁ、この人はきちんと人に気遣いができているなぁ」と感心してしまうほどの気遣いができ、本当はとても優しい人である。そういう「揺るぎない信頼感」があるから、そういうキャラでも愛されているのです。

いやむしろ、単に優しく人当たりがよいだけでなく、そういう一見マイナスに捉えられそうな言動を面白おかしくすることでプラスに転じると言う技を使っているからこそ、より魅力的なキャラクターになれていると言えます。

 

実はぼくが目指していたのはそれであり、ぼくは「つい」調子に乗ってしまうこともありましたが、大半は「あえて」そのキャラクターを演じていました。

ではなぜ有田や徳井が愛されぼくが愛されないかと言うと、それは彼らが愛されている理由を逆に考えてみれば自明なわけで、

 

 

程度をわきまえていなかったから

 

 

「本当は魅力的な人格」を持っていなかったから

 

 

なのだろうと思います。

 

発言をする前に「この程度は笑えるだろう」「これを言っても人は傷つかないだろう」といちいち考えてから発言をしているのですが、その判断基準が間違っていたのです。ぼくのその判断基準はずれているか、もしくは非常にレベルが低く、「これは大丈夫だろう」が「大丈夫」ではなかったのです。

 

そして、そのネタの一部には許容範囲のものがあったとしても、それを言うぼく自身が「気遣いができず、ダメな奴」であったため、ぼくは「良い人格を持っていながらこういうネタをいうギャップがいいんだよ」と思っていたのですが、それは実はギャップでもなんでもなく、ただの「ダメなやつが無考えに言っている無神経発言」と捉えられ、つまり「ウザい」となったのだ、と思います。

 

「あぁそうか、あえてネタを言って好かれるというのは、実はめちゃくちゃ高度な技だったんだ。ぼくみたいなダメなほうの凡人が使ったら、ただ自分の品位と評価を落とすだけなんだな」とようやく気づきました。

しかしなぜこれに長い間気づかなかったかというと、ぼくは高校三年生の時はおそらくこの「技」の使用に成功していたからでした。

 

ぼくは高校3年生の時が、生活も環境も人付き合いも人格も黄金期だったと思います。あの頃は非常に落ち着いていて、独りよがりさも少なく、気遣いもたぶんある程度できており、今のように茶化しやエロネタを言っていましたが、基本的に愛されており、「気持ち悪いです」とやはり言われながらも本当には疎まれていなかったのでは思います。(といっても、ぼくの思い込みなのかもしれないので今度本当のところを聞いてみようと思いますが)

 

しかしぼくは高校を卒業する寸前に無駄にでかい夢を持ってしまい、そうなるとぼくは暴走してしまう特性があるので、「演劇部で全国大会に行きたい」という独りよがりの夢を語って周りを困らせ疎まれていた高校一年生の時の自分に、完全にではないですがかなり近い所まで戻り、つまり退化してしまったのです。これはぼくを良く知る2人の人から実際に言われたことです。

 

なので、その「技」の成功を担保していた「まともな人格」が抜け落ちてしまったにも関わらず、相変わらずその「技」を使い続けていたため、「単にうざいやつ」になってしまったのです。

 

そこまで思考を進めたぼくは、ではどうすべきかと考え、

 

「自重しよう」

 

という結論に達しました。

大学3年生になる直前にある大きな出来事があり、ぼくの独りよがりさや傲慢さはかなり無くなり、だいぶマシになった、つまり「技」を使用しても許される人格になったのかなとは思ったのですが、長らく人に嫌われていた人が、内面だけこっそり変えたところで、その「ウザい奴」というイメージはなかなか変わらないと思ったので、とりあえず「久保君大人しくなった?」と誰かに言われるまで、外面も変える、つまりエロネタも茶化しも封印しようと考え、そして真面目に実行していました。事実、ここ数ヶ月感は基本的に大人しかったと思います。

 

しかし今回、「久保君は何を言っても変わらない」という評価をされてしまった。ぼくは変わっているつもりだけど、人にそう言われるということは、事実全く変わっていないんじゃないか、それだったらぼくはもう救いようがないじゃないか、とひどく落ち込んだのです。

 

このことを、演劇部の顧問の先生に相談しました。

すると、

 

「自分で『変わった』と言うことに意味がないって気づいたなんて成長したじゃねえか。俺は、お前はある程度変わったと思うよ。

まぁ、人は簡単に変わったように見えないからな。お前だって人を見ててそうだろ」

 

と言ってくださったんですね。それでぼくは非常に救われました。ぼくのことをたぶん1番良く知っている先生が「変わった」と言ってくださり、その上『人は簡単に変わったようには見えない』という新しい視点をもらえたからです。確かにそうかもなぁと思いました。

 

ではなぜ今回叱られてしまったかというと、じっくり考えたのですが、理由がやはり2つあるのかなと思いました。それは、

 

気が緩んだから

 

 

それが新しい学びだったから

 

です。

茶化しもエロネタもしばらく封印してはいたのですが、数ヶ月も封印していると自分としてはこれまでにないことをしているのですからやはり違和感があるわけで、「ちょっと調子に乗ったことを言いたいなぁ」と思ってしまったのです。「あえて」していたキャラクターが体に染み付いてしまったのですね。

そして「最近しばらく大人しくしているし、誰にも『変わったね』とは言われてないけど、『うざいよ』とも言われてないから、たぶんこの『大人しくなるキャンペーン』は成功しているだろう。そろそろ少しぐらいいいんじゃないか」と思ってしまった、つまり油断してしまったのです。

 

それでももちろん「これは人が怒るかな?」ということはもちろん考えたのですが、結果的に怒られることになってしまったわけで、なぜそれに気づかなかったかというと、「それが新しい学びだったから」なのだと思います。

 

どういうことかというと、今回の件は色々な人に「逆の立場になったらどう思うか考えてみなよ」と言われたのですが、おそらくそれは今回のぼくに対するアドバイスとしては的を外れていて、「逆の立場になったらどう思うか」というのはぼくの大切にしているまさに「想像力」であり、ぼくはおそらくそれは意識できているのではないかと思います。

SNSに写真とか載っけるとよくないって聞くけど、ぼくはそんなことされると困るだろうか?」と想像し、「うん、大丈夫だ」と考えてしまったんですね。しかし、それはぼくの想定していた以上に世間ではタブーであり、それが嫌だと思う人がけっこういたのです。

それはぼくの中では、22歳にもなって情けないですが、かなり新鮮な発見であり、

SNSにさらされて本当に嫌に思う人がいるんだ」と初めて知ったのでした。

つまり今回、ぼくはどうダメだったかというと、「自分が逆の立場になったらどう思うか」という、これまで散々人に言われてきたことができなかったわけではなく、「自分と違う感じ方をする人がいるかもしれない」と考えることができなかったのです。

これは、これまでのぼくの心にずっと書き留めていた「反省ノート」には記述されていない学びであり、この種類の反省は初めてしたのでした。

つまり、ぼくは今回「新しい反省」をしたのであり「反省力」がなかったということではなく、今回「久保君って変わらないね」と言われてしまったからといって「ぼくは反省力がないのか。本当にダメだなぁ」と自分を全否定する必要はなく、今回の件は新たな学びとしてただ素直に反省し、「これからは気をつける」というシンプルな行動をすればよいのです。

 

これからも、自分が悪いと思ったことはきちんと反省し、少しずつ「より良い人間」に近づいていければなと思います。

 

 

……とこれで「反省力」についての話が終わりかと言うとそうでもなく、まだ冒頭の、「なぜ『反省力』が少ない人がたくさんいるのか」ということに答えていませんでした。

これはおそらく、4つのパターンに分けられるのではないかと思います。

 

①悪いと気づいているが、克服するのが面倒なパターン

②悪いと気づいているが、力不足や性質の不変性により克服できないパターン

③悪いと気づいているが、プライドにより変えられないパターン

④自分が悪いと気づいていないパターン

 

①は、たとえば自分の例で言うと、「ご飯を食べるとき猫背になるのはダメよ」と母に何十回と言われながら未だに克服できていないことなんかがそうです。「たぶんこれって悪いんだろうなぁ」と思いながら、別にそんな困ることもないし、姿勢を正すの面倒だし、「ま、いっか」と思っているパターンです。これはたとえば彼女ができたりなどして本気を出せば克服できるので、「頑張れ」で済みます。

 

②でいう力不足とは、たとえば想像力などです。「人の気持ちを想像しなさい」と言われ、そうしようと思っても、想像「力」は力なので、その力がそもそもなければすぐに克服はできないのです。

性質というのは、たとえば時間が守れない、短期などです。こうした欠点は、「直そう」と思っても、体に染み付いてしまっている性質なので、簡単には克服できません。

これらは日常で意識し続けることによって克服は可能でしょうが、特に性質の方はかなり難しいでしょう。

 

③は、「本当は自分が悪いんだろうな」と心のどこかでは気づいているのに、プライドが邪魔して変えられないパターンです。これはまぁ、ぼくはそういうプライドがないのでよく分かりません。

 

問題は、④です。これが恐ろしいくらい厄介なのです。

今日ぼくが叱った後輩は、ぼくの指摘に対し、それを直すのが面倒だったわけでも、プライドが邪魔したわけでもありません。単に、心から「自分は悪くない」と思っていたのです。

 

よく「人の言うことは素直に聞きなさい」とか「ちゃんと反省しなさい」と言われますが、「相手の言うことが正しくない」と思っているのに、その言うことを素直に聞き反省することはできません。だって納得してないんですから。

 

ぼくも、長らくそうでした。先生に「お前はこういうところがダメだ」と叱られても、自分の中ではそれは正しかったので「でもこうじゃないですか!」と口答えばかりしていました。何度そのやり取りをしたか分かりません。でも、そう言っている間は本当に成長しないんですよね。

ところが、ふとその指摘が「正しかったな」と思う時がぼくには来るんですよね、いつも。

たとえば、「話が長いと迷惑だから直せ」と言われたとき、はじめは「でもぼくは重要なことを言っているから長くても仕方ないじゃないですか」と言ったんですね。反発心からとかではなくて、普通にそれが正しい考えだと思っていました。

でも生活し、人とふれあい、誰かの長い話を聞いてうんざりしたり、自分の話をつまらなそうに聞いている人の顔を見たり、そういう経験を積み、その「経験」が一定値を超えたとき、ふと

 

「あ、話が長いって、結局『自己中』ってことなんだな」

 

と肌で感じ、ストンと自分の中に落ちたんですよね。それは先生に指摘されたことがきっかけでしたが、指摘だけでは決して分からないことでした。

 

ぼくはいつも、言葉だけでは自分の欠点や間違いに気づかず、人の指摘に反発し、「素直じゃない」と言われ、しかしその後なんらかの経験を通し、ふとその指摘の真意に気づき、「言う通りでした」と言って驚くほど素直になる……これの繰返しです。

しかし、これはたまたまぼくがそうした経験をしてきたからできていることであって、人の指摘を直すには、その指摘が「正しい」と理解するまでに自分の人間力を上げなければならず、その人間力の上げ方は「経験」という偶発性による、というのがぼくの考えです。

 

長々と話してきましたが、つまり、今日ぼくは後輩を叱り、その後輩はぼくの指摘を理解してくれませんでしたが、それを「こいつは反省力がない」と切って捨てることはできず、彼が変わるにはぼくの言葉だけではなく、彼自身がこれから何らかの「経験」を通してそれに気づくしかないのだな、と思いました。

 

こんな長い文章を最後まで読んでくれた人はおそらくいないかと思いますが、もしいたら、ありがとうございます。

今日のプロフェッショナルの「弟子入り企画」が凄かった!

今日のプロフェッショナル、見ましたか?

今日のは、天ぷら職人や清掃員、編集者などの熟練のプロフェッショナルに10代の子供達が弟子入りし修行をするというこれまでにない挑戦的な回だったのですが、めちゃくちゃ面白かったです! 

いや、別に「10代の子がこんな一生懸命めげずに頑張る姿っていいなぁ」というわけではなくて。ぼくもまだ20代になったばかりだからそんな感慨は持たないですし、頑張る10代なんて演劇部でたくさん見ているのでそういう感傷はあまりなかったのですが、何が良かったかというと、プロのマンガ編集者の佐渡島さんという方が超素晴らしかったんですよ!

 

f:id:bokutaka:20161128234314p:plain

 

この方は、ドラゴン桜とか宇宙兄弟などの超有名なヒット作を世に送り出した驚異的な編集者なのですが、愛があるもののめちゃくちゃ厳しい指導を子供達に容赦なくぶつけていく姿が非常にカッコ良かったです。

 

弟子は、マンガや短歌など様々な作品作りをしている18歳くらいの子供達4人。

 

f:id:bokutaka:20161129003115p:plain

 

初日にそれぞれ作品を見せるのですが、それを見た佐渡島さんはいきなり、

「一ヶ月も時間あったのに全然準備できてないよね。こんなんだったら、君たちはたぶん『いつか創作の神が降りてくる』と思いながらずっときちんとした準備をしないで時間を過ごして、30歳ぐらいになってから『私には創作の神が降りなかったな』って思ってたぶん別のことをするよ。でも、創作の神なんて一生降りてこないんだって。ちゃんと準備しなきゃ」と、猛烈に厳しいことを言い放ちます。

 

f:id:bokutaka:20161129003009p:plain

 

もちろん、どの作品も「プロになるにはほど遠いね。新人賞取る人と比べても全然負けてる」と容赦ない評価。こうしたことを、嫌味たらしくなく、笑顔で淡々と言うのです。

みんな奮起して頑張り、作品を直してまた提出するのですが、それを読んだあとも「君の個性が現れてない」とか「たったこれだけのこと伝えるのにこんなにページ数いる?」とか、本音をずばりと言います。

まだ子供なんですから、少し頑張ったところで、プロの編集者が「面白い!」と言える作品を創れるわけないんですよね。普通ならお世辞を言ってしまうところを、きちんと本音を言う姿に好感が持てました。

こういう人ってすごく魅力的だし、こんな人の元で修行ができたら、諦めない限り人はすごく伸びるだろうなと思いました。ふと見てみただけでしたが、なんだか元気がもらえる番組でした!

 

SNSで自分をメディア化できる時代

全く話が変わりますし「プロフェッショナル」の本筋と逸れますが、ついでに思ったこと。
Twitterで探したら、すぐにこの佐渡島さんのアカウントが発見できました。そこにSNSの可能性について興味深いことが書いてありました。

「メディアを持つことは、マスコミだけに許された特権だった。しかし、SNSを利用することで、誰もが自分をメディア化し、ブランド化することができる」

なるほどなぁ、と思いました。今のぼくの目標は実は、「自分をメディア化すること」です。それができれば最強なんじゃないかなと。だからブログを書いています。

ブログだけではなくて、マンガとか小説とか、商品として売れなくても、今はSNSを使って発信できる時代です。現に最近ぼくがはまっているもので、「左ききのエレン」という漫画がネットで販売されています。

 

f:id:bokutaka:20161129004236p:plain

 

失礼ですが、正直絵はびっくりするくらいつたないです。でも抜群に面白く、内容の良さとSNSの発信力を掛け合わせて売っています。

こういうのができたら楽しいだろうなと。ぼくはお話を考えるのが好きですし、1番好きなコンテンツは漫画です。「自分には描けないだろう」と諦めていましたが、少し練習すれば、プロにはなれなくとも何らかのメディアとして発信できるかもしれません。

今回のプロフェッショナルを見たことをきっかけに、久しぶりにゾクゾクと創作欲がわいてきました。

超オススメ自己啓発書 “夢をかなえるゾウ” 紹介!

ぼく、けっこう自己啓発書を読むんですよね。

中学生の時くらいからたまーに読んで、高校の時なんか「ダメな自分を変えたい!」っていう気持ちは強かったのでめちゃくちゃ読んでました。でも、自己啓発書ってけっこう否定的な人が多いですよね。

ぼくは自己啓発書を読むことって普通にいいことだと思ってたんですけど、ある時女友達と本屋巡りしてる時に「ぼく自己啓発書よく読むんだよね〜」って言ったら、「え、そんなの読んでどうするの?」って引かれた時のことは忘れられません。しかもその子はどんな本読むかっていったら、ゲームの攻略本ばっかりらしいですからね。ゲームの攻略本よりは役に立つだろ!って感じでしたけど笑

でも確かに、自己啓発書に否定的な人の気持ちはよく分かります。

つまり、「本なんか読んで変わるの?」ってことなんですよね。
本を読んでその教えの通りに変われるのなら、誰も苦労しません。読んでも、変わろうという気、もしくは変わった気になるだけで、実際には変われないケースが大半です。だからこそ書店には常に新たな自己啓発書が目立つ所に置かれているわけです。もし本当に自己啓発書で変われるなら、たとえば「7つの習慣」が世界的ベストセラーになった時点で、新たな自己啓発書は売れなくなっているでしょう。

 

―それを皆知っているからこそ、一生懸命ラインマーカーを引きながら自己啓発書を読む人を世間は馬鹿にするのです。それはある意味当然の反応と言えます。

が、ぼくは、それでも自己啓発書には何らかの意味があると思っています。それは場合によるのではないかと。これは、「人を変える力がある自己啓発書もある」という意味ではなく、自己啓発書によって変わる人もいる」という意味です。

その人に本の教えを吸収できる力がなければ、どんなに優れた自己啓発書を読んでも意味がないでしょうし、逆にそれほど優れた自己啓発書でなくても、きちんと吸収できる人が読めば何らかのプラスの効果は得られるでしょう。要は人次第だと思います。

さて、「自分は本の内容を吸収できる/したい」という人のために、ぼくが今までで1番気に入っている自己啓発書を紹介します!

それは、“夢をかなえるゾウ”です。

 

f:id:bokutaka:20161127231559j:plain

 

ありえないくらいふざけた装丁ですね。

なんなんでしょう、このやる気のなさそうな雑な絵は。本の内容が全く伝わってきません。ぼくは最初、子ども向けの絵本かと思いました。

でもたぶん、知っている人は多いのではないかと思います!9年前にベストセラーになり、連日ニュースで取り上げられた本ですから。

これは、「どうやったら成功できるか」を小説仕立てでユーモア抜群に書いた、超斬新な自己啓発書です。単に「こういうことが大事です」と真面目に教えるのではなく、ギャグ満載の小説を読んでいるうちに、自然と成功法則を覚えていくという画期的なスタイルになっています。

 

分かりやすくて面白くて役に立つ!必ず万人受けする、超超超お勧めの必読書です!

では、内容を紹介していきます!

 

「変われない」主人公

主人公は若い普通のサラリーマンです。ある日、会社の先輩に誘われ、有名人やセレブばかり集まるかなりリッチなパーティーに参加しました。当然誰にも相手にされなかった主人公は帰ってから大泣きして叫びます。

「ぼくだって昔はすごかったんだ。だけど今は普通。超普通。いやだよこんなの!」

すると、ガネーシャという、インド象のくせになぜか関西弁の神様が突然現れ、「自分(大阪弁で「お前」)、覚悟できてんの?そんなに変わりたいなら、絶対変われる成功法則を教えたるで」と言ってきます。

突然のことで困惑しながらも、主人公はその言葉を受け、こんなことを思います。

 

このままでは終わりたくないと思っている。成功したい。有名になりたい。今のままじゃダメだ。それは分かってる。でも、「変わる」って。口にするのはとても簡単だけど、実行するのがこんなにも難しい言葉はないんじゃないだろうか。以前、人生を変えようと一大決心をしてインドに行ったけど、今は結局、インドに行く前とまったく変わらない生活を送っている僕がいる。そんな僕を僕はまた少し嫌いになりかけていた。

しかも、それがはじめてじゃなかった。

今まで、僕は何度も何度も、変わろうと決心してきた。目標を決めて毎日必ず実行しようと思ったり、仕事が終わって家に帰ってきてからも勉強しようとするのだけど、でもだめだった。「やってやる!」そう思ってテンションが上がってる時はいいけれど、結局何も続かなくて、三日坊主で終わってしまって、もしかしたら「やってやる!」って思った時より自分に自信を失っていて……そんなパターンばっかりだった。

変わりたいと思う。

でも、いつしか「変わりたい」という思いは、「どうせ変われない」という思いとワンセットでやってくるようになっていた。

 

どうでしょう、すごくないですか、これ。自分のことを普通、もしくはダメだと思っている人にはすごくよく分かるのではないでしょうか。ぼくもこの主人公の気持ちが痛いほど分かるのです。ぼくも、「変わろう」とこれまで何十回も思ってきて、それでも変われない、のくり返しでした。

そして主人公は、ガネーシャに「本当に変わりたいのか変わりたくないのか、どっちや」と聞かれ、さらにこう考えます。

 

「きっかけさえあれば」いつも、そう思っている。まだそのきっかけが僕には来ていないだけなんだ、そう自分に言い聞かせてきた。

……でも、本当は「きっかけ」なんてたくさん転がっていて、恥ずかしい思いをしたり嫌な思いをした時がそれだったのかもしれないけど、そのきっかけを、僕は今までずっと素通りしてきたんだ。だからこのままでは「きっかけ」なんて来ない。それが「きっかけ」であることを決めるのは、今この瞬間の僕なんだ。

 

ここも共感できる人が多いのではないかと思います。何か劇的なきっかけがあれば変われるのに、とそのドラマチックな瞬間を待ち望み、時々はそうした瞬間が来るものの、やはり変われず、「今のは本当のきっかけじゃなかったんだ。またくるさ」と自分の心をごまかしてしまう。ぼくもその連続でした。いや、今もそうです。

 

とにかく、主人公は「これがきっかけだ」と決め、ガネーシャと「必ず人生を変える」という契約を結びます。

 

簡単すぎる課題といい加減なガネーシャ

ガネーシャは、毎日一つずつ「課題」を主人公に出していきます。 

それは、「靴を磨く」とか「トイレ掃除をする」とか、びっくりするほど簡単なことばかり。主人公は思わず拍子抜けしてしまいます。

しかも、ガネーシャは全然きちんとした神様ではないのです。「食事は腹八分におさえて自分をコントロールせえや」と言うくせに自分は腹が出てるし、「何かをやめることが大事なんや」と言いながらタバコを吸ったりします。わがままだしすぐ泣くし、ギャグはつまらないし、超いい加減な神様です。

 

 しかし、それがこの本の魅力なのです。

主人公はガネーシャに「靴磨けや!」と乱暴に指図され、「こんなことやって本当に成功するんですか?」と半信半疑で取り組みます。また「朝食にベーコンがないってどういうことやねん!ワシのベーコン欲を見抜けや!」と言われ「人の欲しいものを先取りする」という課題を与えられたり、「人を笑わせる」という課題の見本を見せるために滑り芸を披露されたり、もう無茶苦茶なやり取りの中で課題をこなしていきます。

あきれたり喧嘩したりしながら課題をこなしていく内に、主人公はその課題の中に隠された大切な教えに自然と気づいていくのです。

たとえば、靴を磨くというのは「自分を支えている道具を大切に扱う癖をつけるため」、トイレ掃除をするのは「人が一番いやがることを率先してやることの大切さに気づくため」などです。そうやって主人公は少しずつ少しずつ成長していきます。

 

学んだだけでは、変われない

ところが、本の終盤で、ガネーシャはとんでもないことを言い出します。

 

「自分、このままじゃ変われへん思うねん」

 

 と。そして主人公にこう言い放ちます。

 

「今はワシがいるから課題を頑張れてるけど、ワシがいなくなったらダメになってしまうんや。だってワシの教えを学んだから今期待しとるんやろうけど、ワシの教えは、実は全部自分の本棚に書いてあることなんやで

 

そう、ガネーシャが言ってきたことは実はとっくにあらゆる自己啓発書に書いてあることであり、主人公は以前本を読んでその箇所に付箋を貼り、「変わるぞ」と意気込んでいたのでした。それでも変われていなかったのです。

 

「人が変われるのは、教えを学んだ時やのうて、立って行動した時だけや」

 

そうガネーシャは断言し、主人公に「必ず教えを実行に移すこと」を約束させます。

 

ぼくは教えを実行に移さなかった

この物語の結論を言うと、主人公はきちんと最後まで課題をこなし、見事に自分の夢を掴んで成功します。

そして当時中学2年生くらいだったぼくは、「あぁ良かった、素晴らしい本だ!よし、ぼくもこの本に書いてあったことを実行して成功しよう!」と強く思いました。

 

……思って、ぼくは課題をひとつもこなしませんでした。

 

そう、あれほど「課題を実行に移すこと」と書いてあり、ぼくもそのように決意したにも関わらず、ぼくは翌日も翌々日も課題に手をつけず、いつの間にか「夢をかなえるゾウ」は本棚でほこりをかぶっていました。第一の課題の「靴を磨く」にすら手をつけなかったのです。

なぜか。それは、「それだけ、『実行に移す』ということが難しいから」です。もっと簡単に言えば、「めんどくさかったから」です。

世の中には、たくさんの「こうした方がいい」という教えがあります。それは本の中にも書いてあるし、親や先生から言われることもあります。人に言われたことは強制力があるのでその場ではやるかもしれませんが、結局長続きしないことが大半でしょう。たとえばぼくは「姿勢よく食べなさい」と言われ、そうした方がいいのだろうなと思いながら結局できていません。

人間はそれだけ、行動を変えることを億劫に感じる生き物なのです。ましてや、本に書いてあることを、誰にも強制されない状況で実行し、しかも習慣にするなどもはや奇跡の領域でしょう。しかし、行動し習慣にしないと意味がない。だから自己啓発書を読んでも人は変わらないのです。

「この物語の主人公にはガネーシャがいたから変われたんだよ。ガネーシャが傍にいないぼくには無理だ」と、ぼくは変わることを諦めました。

 

いつの間にか変わっていた

ところが、面白いことが起きました。

高校を卒業する頃、暇な時間があったので、ふと久しぶりにこの本を読んでみたんですね。そしたら、ぼくはその本に書いてあるほとんどの教えをできるようになっていたんですよね。

なぜこんなことが起きたかと言うと、この本の内容を無意識に考えていたからとかではなくて、現実で人に直接、厳しく教育をされていたからでした。

この本に書いてある「成功法則」というのは、大層な課題でも特別な裏技でもなんでもなくて、要は「人として大切なこと」なのです。「トイレ掃除の様な人が嫌がることを率先してやれば、人は自分を好いてくれるよ」とか、「人に親切にすればめぐりめぐって自分にかえってくるよ」とかいうことです。

ぼくには高校時代、自分をとても一生懸命に指導してくれた先生がいました。ぼくが間違えたりダメだったりしたときに毎回本気で怒ってくれ、ぼくはその度に反省し、少しずつ改善しようと心がけてきました。そうした3年間を送ったあとにこの本を読んでみたら、「あれ、気づいたら人として大切なこと身に付いてたじゃんぼく!!」となったわけです。

この時、ぼくは思いました。

「ああ、結局人を変えるのは、本ではなくて人なんだな」と。

 

ぼくは最近もちょくちょく自己啓発書を買って読みます。最近では「結局、『すぐやる人』がすべてを手に入れる』とか『7つの習慣 TEENS」とか。どれも読み込み、三色ボールペンでたくさん線を引いてますが、結局何一つ実行できてないし、何も変わっていません。やっぱり自分ダメだなぁ、と自己嫌悪の日々です。

ぼくはいつも強烈に思います。学んで得た教えを実行できる人になりたいと。人に言われたことや読んだ本の内容をあますところなく吸収し、成長できる人間になりたいと。

学びを実行に移すこと。一見簡単そうなのに、なぜできないのか。一番の敵は、自分の心の中に巣食う「めんどくさい」という感情です。こいつがぼくをダメにする全てです。こいつをなんとかしたい。なんとかしてほしい。そう願う日々です。

 

夢をかなえるゾウ、本当に素晴らしい本ですが、あなたがこれまで何冊か自己啓発書を読んで変わらなかったのなら、やはりこの本もあなたを変えることはできないかもしれません。ですが、もしあなたに、教えを実行に移すほんの少しの勇気と行動力があれば、人生を劇的に変えることになるでしょう。

どちらになるかはあなた次第ですが、是非1度読んでみることをお勧めします。